空 蝉
<1>



 
 二月の風は肌を刺す。運ばれる寒気団は命あるものに襲いかかり、決してゆるむことはない。 
 霜柱が庭の苔を押し上げ、凍てついた大地から切り離そうとする。その霜柱の上をサクサクと音をたて、雪駄に素足の青年の足が土を踏みしめる。彼の肌は霜よりも白く、体温を感じさせない。彼の微かに吐きだす息もまた、凍てつく大気に逆らうでもなく、おぼろに白く漂う。
 青年の細い腕に握られた竹箒が、空気をゆらし庭を掃いていく。白寒梅、十郎がいまを盛りと咲き誇っているが、寿命はすぐにも終わる。白加賀はまだつぼみだ。もう半月をまたずに十郎にとって変わることになる。
 大寒の陽射しは弱々しく青年の顔を映し出す。切れ長の眼もとからは表情が伺えない。瞳は、光線の加減によって蒼く暗い灰色に見えた。この青年は、名を清隆という。
 彼は洗いざらしの黒い剣道着を肌に直接着けている。袴も同じく黒い。清隆は寒暑にかかわらず一年中この姿であった。
 歩を進める姿勢には一分の隙もない。庭を掃く清隆の醸し出す雰囲気には、侵しがたい清閑さが漂っていた。

「おはようございます」
 か細い消え入りそうな声がした。
「・・・・・おはよう」
 清隆は抑揚のない澄んだ声で言葉を返すと静かに振り向いた。冷気をはらんだ風が長い髪をなぶる。藤紫色の打ち紐で束ねられた総髪は背中まで垂れ下がり、灰黒色に輝いていた。
 そこには、セーラー服にコートを羽織った少女が凍えそうに立っていた。身につけている衣服はところどころ薄くなり、すり切れそうであるが、スカートの折り目はきちんとアイロンが掛けられ、みすぼらしさは微塵もない。清潔な凛々しさを感じさせる。
 少女は名を早苗といい、高校二年生であった。彼女は、週に一度は白川邸を訪れる。彼女が書道を習い始めて、もう六年になる。初めの頃は清隆の父、輝孝が指導をしていたが、父が床についてからは、ごく自然に清隆が教えるようになった。
「・・・・・寒いでしょう、こちらへおいで」
 一呼吸をおき清隆が言った。彼のまわりだけ、時がゆるりと流れている。
 清隆は、枯れ葉を燃やしている焚き火のところへ早苗を導いた。凍える寒さの中、炎はチラチラ弱々しく揺れていた。
 二人の向かいには、白川邸の母屋が未だ寝静まっていた。七千坪の敷地に、二百坪の母屋、池を隔てたところに離れと数寄屋、その側には井戸が掘ってある。
 正門に向かって母屋と反対側に書庫、そして倉が二つと納屋がある。邸内の大部分は梅園となっているが、池の側には立派な藤棚がある。当主の白川輝隆は八十四歳、この一年は寝たきりの状態である。いささか不自然ではあるが、二十一歳の清隆は孫ではなく一人息子であった。
 焚き火が、少女の顔を照らす。長い髪をヘアーバンドでとめた清楚な横顔に、わずかに翳りが走った。 

「清隆さん、寒いのに毎日大変ね」
 早苗はいつもの明るい声で言った。
「これが、僕の生活ですよ。ところで、今日はどうしたのですか」
 学校に行くにはまだ早すぎる時間であった。すり切れた革カバンを胸に抱いた早苗は、返事をするのを戸惑っているふうだ。
「家にいたくないの」
「お母さんは大好きじゃなかったの」
 清隆はおだやかに言った。
「そうなんだけど・・・・・わたし、家以外で行くところと言ったら、清隆さんのところしかないの」
「私のところでいいのなら、何時でもおいで」
「ほんとに、嬉しい! そう言ってくれるだけで、楽になっちゃった」
 清隆の耳にも噂が届いていたはずである。早苗の人柄から友人は多いが、決して深いつきあいはない。まわりから一定の距離を置かれているのだ。父親はヤクザで人を殺し刑務所に入っており、母親は水商売をしている境遇のせいである。水商売など東京ではどうということはないが、東京オリンピックが終わって四年、昭和四十三年の片田舎では、まだ社会的に認知される状態にはなかった。
「早苗ちゃん、ちょっと手を見せて」
 清隆の視線が早苗の指に止まった。
「いやだ、恥ずかしい」
 と言いながらも、早苗は拒む気配を見せない。
 清隆は掬い上げるようにして、早苗の手を取った。青い血管がかすかに浮き出ている、彼女の白く細長い腕と指。その指は、過酷な家事、水仕事をこなしているにしては、しっとりと濡れるような肌触りをしていた。極寒の冷たい水で洗い物をし、湯を使っていない証である。清隆の細長い指がすべすべなのは、同じく湯を使わないせいであった。

 早苗が白梅に目線を移した。
「ほんとうに綺麗だわ。十郎・・・・・今年もまた花びらをもらうね。十郎は清隆さんのような花だわ」
 彼女の言葉に、二人の手は自然に離れた。
「どうして、私のようなのですか?」
 清隆の表情は変わらないが、おだやかな目つきをしている。
「真っ白で、峻厳で、寒風に突き刺さるように咲いているのに、春を呼ぶんだもの」
 そう言うと、早苗は白梅の木の下に歩み寄った。この数年間、毎年彼女は十郎と白加賀の花びらを押し花にしているのだ。
「ねえ、ねえ・・・・・見て、清隆さん」
 早苗は、手招きをする。
「蝉よ、蝉のぬけがらよ」
 梅の幹に、琥珀色をした蝉のぬけがらがちょこんと取り付いていた。
「・・・・・うつせみか」
「うつせみ? なんなの」
「蝉のぬけがらのことだよ。源氏物語の第三巻は『空蝉』だったな・・・・・」
「どんな話しなの?」
「光源氏が空蝉という女性に、袖にされてしまうんだよ」
「そうなの、光源氏も振られることがあったのね、安心しちゃった。うつせみか・・・・・」
 言い終わらないうちに、早苗はそっと手を延ばし、蝉のぬけがらを摘んだ。
「見て、大きい、うつせみよ」
 早苗の手のひらには、背の開いた琥珀色のぬけがらが乗っている。大きさから言って、ヒグラシだろう。
「いやだ! 足が一本取れているわ」
 清隆は早苗の言葉に、十郎の幹を見た。ギザギザ棘のある足が一本、かさぶたのような幹に残っていた。
 切れ長の眼を見開き、清隆は取り残された小さな蝉の前肢を見つめ続けている。 
「ぬけ出た蝉は、もうとっくに死んでるわよね。この殻は火葬にしましょうよ」
 そう言うと、早苗は焚き火に向かって歩き出した。十七歳の少女に取っては微笑ましい儀式なのだろう。
 清隆も後ろに従う。取り残されたヒグラシの前肢を気にしているごとくに見えたが、彼が振り返ることはなかった。

 庭掃除を終えると清隆は、早苗をともない南正門のところに向かった。正門の側にはこの邸宅には珍しく、桜の木が数本植わっていた。桜の蕾はまだ凍えるように小さい。
 門を横に折れると時代を経て蔦のからまった洋間に沿って石畳が続く。洋間を通り越すと二人は裏手へと回った。外から見るだけでも内部の豪華さが窺われる洋間は、最近ほとんど使われることがない。
 さらに歩いていくと、炊事、洗濯用の生活井戸と水洗い場があり、その先にある勝手口についた。
 格子にガラスの入った、大きな台所の引き戸を開けると土間になっていた。清隆が戸を開けると中から声が掛かった。
「ぼっちゃん、おはようございます」
 真っ先に声を掛けたのは、女中頭の久江だった。歳はもう六十を過ぎているだろう。頭髪にはかなり白いものがまじり、黄八丈に割烹着を着けている。
「清隆様、おはようございます」
 若い女中の和子と恵子だ。三人は住み込みの女中である。こちらは厚手のセーターにジーンズを履いていた。
「おはようございます。寒いからこんなに早く起きなくてもいいのに」
「そうは、まいりません。ぼっちゃんが、早くから庭掃除をなさるのに、わたしどもが寝ているわけには、まいりません。あらッ、早苗ちゃんじゃないの、こっちにいらっしゃい。寒いでしょ、早く、早く」
 久江は有無を言わさず、早苗を土間から板張りの床の先にある掘り炬燵に案内した。そこは、十二畳ほど畳が敷かれており、真ん中に掘り炬燵が切ってあった。石油ストーブも赤々と燃えている。この邸内で一番暖かく、色彩のある場所であった。
「はい、外套をぬいで、コタツに入った、入った」
「はい、失礼します」
 久江は早苗から受け取った外套を、衣紋掛けにとおした。
「早苗ちゃん、こんなに朝早くどうしたんだい?」
「おばさん、わたし梅の花をもらいに来たの」
「あっ、そうか、そうか、押し花だったよね、もう何年になるのかい?」
「今年で五年目よ、梅の花はどこにもあるけど、この家の十郎と白加賀が一番好きなの」
 早苗の白い顔が、ストーブとコタツのせいか、ほんのり紅くなった。
「うれしいね、早苗ちゃん、この家の梅の木は、そんじょそこらの梅園なんかと比べ物にならないんだから。なんてたって、ぼっちゃんが精魂こめて手入れをしているんだからね」
 子供のいない久江は、まるで早苗を自分の子供のようにあつかう。
「早苗ちゃん、君に梅の木をあげるよ。十郎と白加賀一本ずつ好きなのを選びなさい。僕が責任をもって、世話をしてあげるから」
 いつのまにか側に来ていた清隆が言った。コタツに入らず、背筋を伸ばし、隙も見せずに正座をしたままである。総髪が数本ばらけて額にかかり、切れ長の眼もとからは感情をうかがうことが出来ない。
「ほんとうに、嬉しいわ!」
「よかったね、早苗ちゃん」
 久江の言葉とともに、清隆は席を立ち土間に向かった。

 広い台所の水回りは、全て土間の上にある。以前は竈もあったが、なくなってずいぶんになる。改装せずに土間のままにしているのは、女中頭の久江のこだわりであるらしい。久江がこの家に働くようになって四十年余りになる。
 女中三人の仕事の殆どは、建家の清掃に尽きる。食事の用意は四人分、しかも、清隆は食事に関しては、旨い不味いを決していわず、出されたものを黙って食べるのでほとんど手が掛からない。
 当主、輝隆の食事、身の回りの世話は、一切を清隆が行い余人には手を触れさせない。よって、女中の仕事は掃除にならざるを得なくなる。大正初期に建てられた家屋がいささかも古めかしい感じを与えないのは、保守管理がきちんとなされているのと、行き届いた清掃のせいである。
 清隆は雪平を取り出し、米を研ぎはじめた。流しは女性の身長に合わせて作られており、背の高い清隆は窮屈そうに腰を折る。使い古した雪平であったが、白い釉がかかった厚い陶器の鍋は、粥をつくるのには欠かせない。
 米をといだあと、一時間弱おいて吸水させ、中火にかける。沸騰したら弱火にしてさらに一時間はたくことが、清隆の身体に染みこんだ習慣になっていた。
 吸水させる間に、清隆は洋間の横を通り、庭を横切って奥の離れと数寄屋のそばにある井戸に行くことが日課となっている。
 この井戸は、富士山の伏流水で清逸な石清水が滾々と湧き出ている。白川家の茶、書、輝隆の粥には必ずこの水を使い、水道水を用いることは決してない。

 池の端まで来たところで、清隆は立ち止まった。百坪を超えようかという大きな池であった。白川邸、七千坪全体が一つの思想、美意識のもとに造られている。設計者は清隆の祖父、白川秀隆であった。
 池の大きさ、位置、中に配置された多くの岩、すべてが微塵も変更出来ない美意識の表出であった。
 厳冬の池には生命の躍動が感じられない。静まりかえった水面を透して、清隆は底の真鯉を見つめている。彼の洗い晒しの剣道着と同じ色をした真鯉は、水底に佇んだままほとんど動かない。池には、錦鯉、緋鯉も多くいるが、清隆の視線がそちらに移ることは決してなかった。

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