空 蝉
<2>



 
 数寄屋の横にある井戸の廻りは、石畳になっていた。清隆は、雪駄を脱ぐと、凍った石に足を取られないように静かに降り立った。彼は袴の帯を解く、足下に袴が落ちる。上の道着も脱ぐと、そばの生け垣にかけた。
 今まで彼の立っていたところだけ、足の形に氷が溶けている。肌着を身につけることのない清隆は下帯だけの姿になった。白木晒しの下帯が透き通るような白い肌に、きりりと締め込まれている。
 井戸桶の紐を掴むと、彼は桶を井戸に投げ込み水を汲み上げた。片膝をつくと、桶を頭上に差し上げ、頭から水をかぶった。総髪は打紐で束ねられたままだ。同じ動作を何度も繰り返す。水垢離か、あるいは祈願でもあるのだろうか。それにしては、祈祷も呪も上げずに口を結んだまま、続けている。
 清隆の身体から白い湯気がたってきた。井戸水は外気より暖かいせいであろうか。それにしても、清隆は同じ動作を繰り返し、留まることなく水をかぶり続ける。
 肌を突き刺す冷水は、清隆の体脂と体温を奪うことはないのだろうか。
三十分近く、水浴びは続いた。その間、清隆の口から言葉が発せられることはなかった。終わると手ぬぐいで軽く肌をぬぐうと、下帯を新しい物に取り替えた。藤紫色の打紐を解き、背中まで届くばらけた頭髪を拭く頃には、若い身体が肌につく水分をはじいていた。まだ濡れて黒く光る頭髪を、打紐で束ねると衣服を身に着け、雪駄をはき、何事もなかったように清隆はゆっくり歩を進めた。

 台所に戻ると、清隆はコンロに火を着けた。さすがに七輪ではなくプロパンガスが来ている。
「早苗ちゃんが見えませんね」
「梅をもらったと言って、喜んで学校に行きましたよ。ほんとうにいい子ですねえ。親はあんなだのに」
 久江は早苗が気に入っているらしく、何かと面倒を見ている。
「そうですか、喜んでいましたか。こんど木札に名前を書いて、気に入った梅の木に着けてあげることにしましょう」
「ぼっちゃん、ぜひそうしてやって下さい」
 漬け物を刻みながら、久江は話している。和子はみそ汁をつくる支度をはじめ、恵子は掘り炬燵のうえに四人分の食器を並べている。
「先に食べていてください」
「とんでもない、旦那様より先に頂くわけには参りません。ぼっちゃんが戻ってくるのをお待ちしてますよ」
 毎朝、同じ言葉が繰り返されているが、二人は別に奇異には感じていないようだ。


「失礼します」
 返事はない。あたりまえのように、清隆は襖をあけた。
 仏壇に頭を向け、厚く大きな布団に輝隆が横たわっている。目を閉じているが、起きていることを清隆は感覚で分かっているらしい。
 足下を廻り清隆は障子を開いた。朝日が部屋に差し込む。輝隆が頭を左に向ければ、広い縁の先のガラス戸ごしに庭が見わたせる。濡れ縁を改造しガラス戸にしたのは、輝隆が外気に触れることなく庭が見わたせるためであった。
 雪平の乗った盆を部屋の中に入れると、清隆は襖を閉めた。清隆は枕元ににじり寄ると輝隆の臥す上布団の胸元を持ち上げ、壊れ物に触れるように輝隆の上半身を起こした。背を支えながら、ほとんど肉の削げ落ちた肩に紬の単衣の綿入れを掛けた。
 腰を少し持ち上げ、小さな座椅子を腰のところに差し込む。その時はじめて輝隆は眼を開いた。清隆は父の真っ白い総髪を整える。あわせからのぞいた輝隆の喉元は、骨が浮き出て脂気がまったくない。腕も細くかさかさに乾いている。喉からかすかに咳がもれた。

 輝隆が床に着いて二年になる。当初、雪隠へは自分で起きて行っていた。しかし、この一年は寝たきりである。清隆は高校を卒業すると同時に、父、輝隆の身の回りの世話をはじめた。
 決して人と争うこともなく、逆らうこともなく、その、人と異なる風貌からして、世間から超然とした態度をとっていた清隆だったが、父の世話に関しては、かたくなに人に譲ることを拒んだ。大学への進学をはじめ、すべてをなげうって父の世話に集中した。
 今朝のように、粥を匙で父の口に運ぶことは、何千回も行われてであろう。余人には同じことの繰り返しに見えるが、たぶん清隆は日々の父の微妙な変化に気づいているようであった。
 上体を起こすときに、体重の変化を感じ、匙を口に運ぶときに背を支えながら骨の歪みを感じ、粥をすする力の変化も清隆には分かっているように見えた。
 清隆は、刻んだ塩昆布と、潰した梅を粥にていねいに混ぜながら父の口にもっていく。二人の間に交わされる言葉は無い。ただ黙々と匙を父の口に運ぶ動作を繰り返す。清隆の打紐に束ねられた総髪は、乾いてきたらしく黒いなかに灰色をおび、照り映えてきた。

「清隆・・・・・今年の十郎は・・・・・少し気になる」
 輝隆の薄く乾いた唇がわずかに開き、喉から微かな震動が言葉となって吐かれた。
「父上、どのようにでございますか?」
「・・・・・わからぬ」
 そう言うと、再び輝隆の唇は開くことはなかった。二人はしばらく、庭の十郎を見つめた。その間、清隆の細く白い手が父の肩を抱き続けていた。
 清隆は父をそっと横にして上布団を掛けた。
「三十分後にまた参ります」
 平伏してそう言うと、清隆は盆をもって退出した。食事の終わった輝隆は、もとのように床に伏せ、彼の茶色の双眸は、天井の木目を見つめたまま瞬きすらしない。
 清隆は、磨かれて黒光る廊下を音もたてずに歩を進めていく。左右には松の描かれた襖が長く続いていた。
 曇りガラスの戸をあけ、清隆は台所に入った。
「ご苦労様です」
 そう言うと、久江が清隆の手から盆を受け取った。掘り炬燵の上には、四人分の朝食の用意がすでに調っていた。
 隣の居間には、いつものように、衣装盆の上に、輝隆のための合わせの寝間着と六尺の白木晒しが用意されているはずだ。
 輝隆、清隆ともに、下帯だけは真新しいものを用いるため、白川家には白木晒しの反物が多量に蓄えられている。
 食事の後、清隆は父の元に行き、下の世話と湯で身体を拭くのが毎日の習慣である。父の身体をガーゼで拭くときだけは、清隆は湯をつかう。

「ぼっちゃん、先ほど矢野先生から電話がありました。午後二時頃いらっしゃるそうです」
 食事の途中に、久江が話しかけた。
 矢野先生とは小田原市で税理士事務所を開いている、矢野正雄のことである。白川家の輝隆と、今は亡き先代の矢野正一郎とは友人同士であり、白川家の財産を先代より引き続き管理してもらっている。輝隆には清隆のほかに身寄りがない。
「いつもの、資産の報告だろうね。久江さんも同席を頼みます」
 清隆は、正座したまま食事をとる。足をコタツに入れることは決してない。
「そりゃ、構いませんけどね。ぼっちゃん、欲しいものはないんですか? これからどうしたいと言うこともないんですか? まだ若いんですから・・・・・亡くなった、奥様からもくれぐれ、ぼっちゃんのことを頼まれてますから・・・・・」
 久江も年のせいか繰り言が多くなる。同じことを何十回繰り返しただろうか。
「父上のお世話をさせて頂く、それ以外に望みはありません」
 べつに機嫌を損ねるわけでもなく、清隆は淡々と同じ返事をする。
「和子、恵子、おまえたちからも何かお言いよ」
「えッ、言えと言われても。久江様は、毎日おなじことをおっしゃるんですもの」
 和子は箸をとめずに言う。
「そうかい?」
「そうですよ。そして、清隆様もいつも同じ答えをなさってますよ」
 恵子も和子と同じことを言う。彼女たちは中学を卒業してこの家に奉公に来て六年になる。この家から定時制高校に通い卒業した。希望があるなら大学に進学する援助も受けられることになっているのだが、二人はそうはせず、裁縫、花、茶、を習い花嫁修業を続けている。
 貧しい家の女の子を引き取り、立派に嫁に出す。あるいは学問を身につけさせ社会に羽ばたかせるのは、亡き白川雅子の方針であった。
 清隆の母、雅子がこの世を去ったのは、昭和三十二年、七十歳の時であった。以来、今日まで彼女の遺志は引き継がれている。

 清隆の祖父、白川秀隆は小田原藩十一万五千石、大久保家の家臣で五百石の禄を得ていたが、明治四年の廃藩置県にともない、明治六年施行された秩禄奉還の法にいち早く応募し、一時金百八十円(現在の約一億円)を貰うと、小田原の家作を処分した金とあわせて、曽我の地に広大な山林を手に入れた。
 別に思惑があったわけではなく、欲望の渦巻く激動の時代から隠遁し、炭を焼きながら自給自足をするつもりであったらしい。しかし、世の中は皮肉なもので一儲けをしようとした者は、武家の商法とやらで、すっからかんになり、そんな気持ちが全然なかった白川秀隆は西南戦争後の未曾有の建築景気に乗り、木材の売却で莫大な資産を築き上げてしまった。
 その後、木材で得た収益を、明治二十六年、東京電灯株式会社改組の際に、すべてを投資し塩漬けにした。
 白川秀隆は、生来の高潔さを失わず質素な生活を続けたため資産はさらに膨らんでいった。彼のこだわりは、剣と茶と書、そして梅の花であった。
 秀隆は一子をもうけた。それが、白川輝隆である。かれも父、秀隆の血を受け継ぎ世俗のことには興味を示さず、ひたすら、剣と茶と書の道を歩き続けた。
 その輝隆が、世俗の世界に打って出たのは数年間のみであった。先の大戦後、まだ混乱が続いていた昭和二十五年、電気事業再編成令にともなう電力業界に激震が走った。前身の東京電灯株式会社の大株主として輝隆は、あえて火中の栗をひろったのだった。
 電力の鬼、松永安左右衛門と手を携え、ついに九電力会社体制を創りあげた。輝隆が財界活動をしたのはわずかな期間だけであったが、白川家の財産は守られ、むしろさらに増大していった。今では、東京電力株式会社の配当金だけで、年間五億円は下らない。 

 白川家の廻りには、ぐるりと生け垣が巡らされている。台に五尺ほどの石垣が築かれ、その上に竹垣、さらに椿と山茶花が植え込まれている。全部で高さは一丈二尺におよんでいる。
 銀閣寺垣と呼ばれるものに似た、立派な生け垣だ。この生け垣の選定だけでたいへんな作業になる。梅林、藤棚、庭の管理を含めて常時職人が、五人は入り込んでいる。集中して作業をしなければならない折りには、職人の数は二十人を数える。
 トラックの荷台に立っても、とても外から内部を窺うことは出来ない。出入り口は東西と南に三カ所あり、南面の大きな門が正門になっている。
 この生け垣に囲まれた七千坪の敷地から、清隆が出かけることは滅多にない。年に五〜六回、修行に山に籠もるほかは、この敷地内が清隆にとって、ほとんど世界のすべてであるように見えた。

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