「清隆様、早苗さんがみえましたよ」
厚手のセーターに身を包んだ恵子が、井戸端にやってきた。寒さが身にしみるのか彼女の身体が小刻みに震えている。
「そうか、今日は日曜日・・・・・いつもの部屋に案内して下さい」
先ほどまで、抜刀を繰り返していた清隆は、下の袴はそのままに、上着をはだけ、白蝋のような滑らかな肌を、井戸の冷水に浸した手ぬぐいで拭いていた。彼は寒さを感じないのであろうか。
「早苗ちゃんは寒がりですから、部屋を暖かくしてあげて下さい。わたしはすぐに参ります」
毎週、日曜日の朝十時に、早苗は書道を習う為に清隆のところにやってくる。書は人なりと言う言葉もあるごとく、早苗の書は端正で清浄さを感じさせる一方、鋭い筆勢は感情の激しさを窺わせるものがあった。
腕前はかなりのものだが、展覧会に出品することはおろか、書道組織に属していないため、段位も持っていない。
ひたすら励む、彼女の書を評価するのは、清隆ただ一人であった。
白川家は秀隆の代から書をたしなみ、清隆の父、輝隆は入木道を張堂寂俊師に直接師事し相伝を受けていた。
清隆は父の指示により、武道と同時に六歳から書の道に入った。入木道の書道は、修行の厳しさでは他に並ぶものがない。最初の三年はひたすら一の字を書かされる。それ以外の字は書くことを禁じられる。四年目から他の字を書くことを許されるが、一の字は一生を通じて書かされるのだ。
しかも、書きはじめる前に三香柱の坐禅をして、精神を集中しなければならない。香柱とは時間の単位である。一香柱とは、一本の線香が燃え尽きるまでをいい、約四十分かかる。したがって、三香柱だと百二十分、約二時間のあいだ坐禅をしなければ、書に入るこたは許されない。
むろん清隆は早苗に、その厳しい修行を強いることはないが、精神を集中し、世塵を祓うために、正座にて十五分間の黙想は強いている。
清隆が襖を静かに開け、敷居を左足で跨ぎ部屋に入った。左足にて室内に入る行為は、清隆の身に付いた習慣であり、本人はまったく意識していない。部屋の中では、白いブラウスに浅葱色のカーディガンを羽織った早苗が姿勢を正し黙想していた。
長い髪をヘアーバンドでとめた早苗は、いつものように、挨拶をすることもなく黙想を続ける。清隆もまた声を掛けない。
早苗の前には、欅の大きな文机がある。向かいにもう一つ文机があり、それぞれの机には書道用具がそろえられていた。清隆も座布団の上に正座し黙想を始めた。
手を両膝の上に置き、身じろぎもしない二人の間に、清浄な時間が流れていく。
「黙想、やめっ」
清隆が声を発した。その言葉と同時に部屋の空気が動き出す。清隆と早苗は墨を擦り始めた。二人は言葉を交わすこともなく黙々と墨を擦り続ける。部屋の隅で石油ストーブの燃える音がかすかにしていた。
筆に墨を十分含ませると、早苗は肘を上げ、白い半紙の上に一気に一の字を書いた。文鎮を外すと、また次の白い半紙にも同じように一の字を書く。しばらく一の字を書いた後、早苗は教本を取り出すと、模写を始めた。
彼女の好みが、王義之の典雅な書ではなく、顔真卿の剛毅な書であるのは意外だ。今日も彼女は、顔真卿を写し続ける。
清隆は、ひたすら一の字を書き続けた。この間二人の師弟が言葉を交わすことはなかった。二人の白い指が黒い墨を含んだ筆を軽く握り、半紙の上を涼やかに動いていく。
「清隆さん、それはなんですか?」
しばらくたった時、早苗が清隆の手元にあるものに気がつき、首をかしげながら思わず尋ねた。
「木札だよ、もう忘れたのかい」
そう言って、微笑みながら清隆は木の札を早苗の前に置いた。そこには、「近江早苗」と王義之流の典雅な文字で書かれていた。早苗は姓を近江という。
「それって・・・・・あの」
「そうだよ、早苗ちゃんの十郎と白加賀に付ける木札だよ」
早苗の瞼が見開かれ、清隆をじっと見つめた。眼がしだいに潤みはじめ、眉毛の端が下がり始めた。
清隆が早苗の肩にそっと手を置くと、早苗は堪えきれずに両手で顔を覆い、喘ぎ始めた。
外見に似合わず、彼女は感情の起伏が激しいようだ。
清隆はそっと手ぬぐいを差し出し、不思議そうな眼で早苗を見つめている。
「どうしたの? 早苗ちゃん」
清隆が声を掛けたのはすこし時間がたってからであった。
「どうしたのって・・・・・わからない・・・・・涙が止まらなくなったの」
早苗は、顎をあげ清隆を見つめる。涙で溢れた瞳は何かを訴えるように見えた。
「どの木を選ぶか、きまりましたか?」
早苗の切ない訴えは、清隆の心に届くことはないのだろうか。
「・・・・・十郎は、蝉の抜け殻のあった木、白加賀は・・・・・その隣の木にして下さい」
早苗の眼は寂しそうに見えた。
「あの白加賀は・・・・・若木でまだ小さいよ」
「でも、十郎のそばの、あの白加賀がいいんです・・・・・清隆さん、世話をして大きくして下さいね」
「もちろん、責任をもって世話をさせてもらいます。早苗ちゃんの大切な木なんだから」
「きっと、きっとですよ」
早苗の思いを込めた瞳が、清隆を見つめた。しかし、切れ長の清隆の蒼く暗い灰色の瞳には変化の兆しはなかった。
襖がそっと開き、久江が茶菓子を盆に載せて入ってきた。
「少しお休みになっては如何ですか」
毎回のことだが、久江が入ってくるのは、書の稽古が始まってきっかり一時間半後である。
「ぼっちゃん、早苗ちゃんの腕前は上達しましたか?」
「たいしたものです。何処へだしても恥ずかしくはないでしょう」
清隆が虚言を述べることはない。そのことを、久江はよく知っている。早苗の眼も輝いた。早苗が清隆に褒められたのは、おそらく初めての経験だろう。
「ぼっちゃん、何処へ出しても恥ずかしくないとは・・・・・もう少しわかりやすく言ってもらえませんか?」
「素人のレベルは遙かに超えている。個展を開いても評判になるでしょう」
「えっ・・・・・清隆さんそれは、本当ですか!」
早苗は大きく目を見開いた。
「本当です」
「早苗ちゃん、よかったね!」
久江は、あふれる笑顔で早苗の手を取った。
「あんた、本当に頑張ったんだもんね!」
そういうと、久江の瞳が潤んできた。
「でも今日の書は、乱れがあった。いつもの勢いのいい字に、ためらいが見られたよ」
「・・・・・」
現実に引き戻されたかのように、早苗は俯いた。
「そうだよ早苗ちゃん、最近すこし元気がないよ。私も気になってたんだ、悩みがあるなら力になるから言っておくれよ」
久江は、まるで我が子のことように気になってしかたがないらしい。
「悪いけど、あんたの母親の明美は、あたしは気に入らないんだよ。ちゃらちゃらするばかりで、誠意てものが全然なくて・・・・・早苗ちゃんのことを、女中がわりにこき使ってさ、あっ、あたしも女中だった!」
「おばさん、そんなこと絶対ない・・・・・お母さんのことみんな悪く言うけど、私の大事なおかあさんです」
「・・・・・ごめんよ、でも、早苗ちゃん、あんたホントに良い子だよ。あの、近江一郎と明美の間に出来た子供だとは、信じられないよ」
久江の口から、父親の名前が出たとき、早苗の顔がわずかに引きつった。
「早苗さん、私でよければ力になりますよ」
「ぼっちゃんも、ああ言って下さってるんだからさ、心配事があるなら言いなさいよ」
久江が促すが、早苗は俯いて口を結んだままだった。強く握りしめた早苗の手が膝の上で微かに震えていた。
清隆は、無外流居合の坐技をさきほどから小一時間続けている。打紐で束ねた髪が少し乱れ、うっすら光る額に掛かっていた。
ここは、白川家敷地内にある武道場だ。広さは五十畳ほどあり、床は磨き込まれて黒光りしていた。師範席には神棚もあり、清隆は今でも毎日、榊の水を換える。
白川邸の南正門から入ると、左手に母屋があり、右手に行くと二つの倉がある。その先に武道場と書庫が並んで建っていた。
武者窓から、二月の弱々しい光が道場内に差し込み、床の一部をまばゆく照り返している。清隆は小学生、中学生のころ毎日のように父、輝隆にこの床の上で剣道の稽古をつけて貰っていた。
面と胴を着け、互いに八相に構えて向き合い、じりじりと間合いを詰める。そして、相手が間合いに入った瞬間打ち込む、狙うは相打ちである。そこで勝負が決する。
清隆が父より、相打ちを取ることが出来るようになったのは、高校生になってからであった。初めて父から相打ちを取った日は、父が喜び座敷の上座に清隆を据え、久江ほか皆を呼び集め、祝いの宴を張ってくれたものであった。
以後、父親から三本に一本は、相打ちを取れるようになった。現代剣道の稽古法にこの様なものはない、古流の直心影流剣術に於いては、この稽古法は連綿と受け継がれている。 この稽古は、心身を練ることに目的がある。早い話、身を捨てる術と言える。初太刀の一閃のもと、相打ちにて果てる稽古だ。戸惑いも、躊躇もなく瞬時に死地に赴かねばならない。
「失礼します!」
道場に入ってきたのは、神奈川県警の磯貝警部補だった。歳は三十を少し越えている。現在は、小田原署に勤務しており、全日本剣道連盟の全国大会の地区予選が始まる前になると、白川家の道場に顔を出す習いになっている。もう十年近くになるだろう。
最初の頃は、父、輝隆も元気で磯貝に稽古をつけてやっていたが、最近ではもっぱら清隆が相手をする。もうすぐ、地区予選が始まるらしく、数日前に稽古に伺うとの連絡があったのだ。
磯貝は神奈川県では名の知れた剣豪である、県の代表にこそなったことはないが、何時の大会でもベストフォーに名を連ねており、準優勝の経験もある剣道六段だった。
「また、暫くは清隆さん、お相手のほど頼みますよ」
磯貝は着替えをすませ、胴を着けながら話しだした。
「私のほうこそお願いいたします」
「清隆さん、一人稽古もいいでしょうが、たまには署の武道場においでなさいよ、いくらでも稽古相手は居りますよ。もっとも、腕前のほどは、まったく清隆さんの相手にはなりませんが」
磯貝は頭に手ぬぐいを巻き始めた。彼の腕は清隆の倍ぐらいもありそうに太い。清隆の方は何時でも面を着けられる状態のまま、正座をしている。
「・・・・・実は、外に出るのは苦手なのです」
「えっ、どういう訳ですか、そう言えば殆ど外出しないようですね。まさか外が怖いわけではないですよね」
「・・・・・怖いんです」
「ハッハハ! ご冗談を、あなたほど強い者が。さあ、用意は出来ました、お願い致します」
二人は、蹲踞して礼をすると立ち上がり、互いに正眼に構えた。背の高さは同じく、六尺を越えているだろう。静かに稽古は始まった。
最初は、剣道連盟の試合用に竹刀で激しく打ち合った。両者とも、ほぼ互角の腕前に見えた。一呼吸を入れながら、一時間ほども打ちち合いは続いた。
面を取った時には、火の気もない底冷えのする道場にもかかわらず、磯貝の頭から湯気が出ていた。彼の髭面からは満面の笑いがもれている。よほど満足しているのだろう。 一方、白磁の額に付いた髪を整える清隆の顔には、汗は見られず、あまり表情の変化もない。
「参ったなッ、清隆さんは、汗どころか、呼吸も乱れていないじゃないですか」
「・・・・・そうですか」
磯貝は呼吸が整ったところで、改めて清隆に頼んだ。
「さあ、今度はいつものやつをお願いしますよ」
「承知致しました」
二人は面を着け直し立ち上がると、三間ほどの間合いを取り、向き合った。八相に構えると、間合いを詰めていく、直心影流、相打ちの稽古が始まった。
繰り返し、幾度も打ち合うが、ついに相打ちにはならなかった。常に磯貝が打たれてしまうのだ。
「いやーっ、まいった、まいった! 清隆さんにはまったくかなわない。また腕を上げましたね、いったい何時稽古をするんですか」
負けたというのに、磯貝はすこぶる機嫌良く見える。
「父より、稽古の本質は一人稽古と言われております」
「ますます、まいった。清隆さんなら、少し大会用の稽古をすれば、神奈川県の代表になれるのは間違いないのに、惜しいことですよ。青年剣士、全日本を制覇・・・・・こりゃ、女の子にもてますよ。いやー、こりゃ失礼、自分は下品というか、率直なので、ついそちらの方に想像がいってしまいます」
「・・・・・綺麗な奥さんがいらっしゃるではありませんか」
「綺麗? 奥さん? あいつがそんな玉ですかね、はっははは・・・・・」
声は陽気であったが、磯貝の眼には鬱積した陰りが走った。彼の夫婦生活になんらかのわだかまりがあるのだろうか。
二人は、面と胴を外し、身なりを整えると師範席の神棚に向かって礼をした。
「湯が沸いていますので、母屋に行って汗を流して下さい」
「清隆さんは、まさか・・・・・この寒さの中、水をかぶるのですか? まったくもって、あなたは信じがたい人ですな」
稽古が終わり、清隆は梅園の中を数寄屋に向かっていく。寒風にさらされながら歩を進めているが、霜が解けゆるんだ地面からは、殆ど足音が聞こえてこない。
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