空 蝉
<5>



 
 凍えるような寒風に嬲られて、水を浴びた清隆の頭髪が、悲鳴をあげるようにばらけ、彼の額を打ち据える。しかし、白磁のような顔は、表情も変えない。
 素足の雪駄の歩みは、地面をまるで濡れ和紙のように慈しみながら進める。
 清隆が勝手口から台所にはいると、久江が雪平の火加減を調節していた。
「ぼっちゃん、もうすぐできあがります」
振り向くもことなく、久江が声をかけた。一心に白粥の用意をしている。彼女は清隆が白粥にいかに心をくだいているか知っている。しかし、何時も彼が粥を作るわけにはいかない。清隆が山籠もりをするときなど、特別の場合は、久江が輝隆の世話をする。側で和子と恵子は昼食の支度をしていた。
「磯貝さんは、お風呂です。それから、ぼっちゃん岸部がきてますよ」
 岸部は呼び捨てである。
「何故あの男は、いつも食事時にくるんですかね。中学の時からそうでしたよ」
「久江さん、そう言わないで下さい。けっこう良い奴なんですから」
 清隆の額に、かすかに皺が寄った。
「座敷で待たせてあります。そういえば、岸部と磯貝さんは初対面ですよね、楽しみだわ。ヤクザと刑事・・・・・」
「久江さん、岸部はヤクザの足を洗っていますよ」
「似たようなもんですよ」
 どうも、岸部は白川家の女性には人気がないようだ。

「失礼します」
 襖の外の廊下から清隆は声を掛けた。襖を静かにあけ、盆に載せた雪平をもって部屋に入り、輝隆の枕元に盆を置いた。輝隆は左を下にして、庭を眺めている。むろん返事はなく、輝隆は横たわったまま姿勢を変えない。
 滑るように膝行すると、清隆は仏壇に灯明をつけ、線香をあげた。高さ一間、幅半間もある大きな仏壇であった。白川家は、代々浄土宗の家柄であるが、祖父、秀隆の代からあまり信心深い方とは言えず、父、輝隆も坐禅については随分修行も積んだが、信心とは少し違っている。
 仏壇には、先祖代々の位牌が並べられてはいるが、一番手前の白木の位牌には『慈心院殿雅空浄台藤光大姉』と墨痕鮮やかにしるされていた。清隆の母、雅子の戒名である。
 雅子が死んだのが五月半ば、白川家の藤棚の花びらが見事に咲き誇っていていたので、それにあやかって着けられた戒名だと清隆は聞いていた。

「・・・・・今日は、居合は抜かなかったのか・・・・・」
 輝隆の消え入りそうな細い声が、仏壇に手を合わせていた清隆の耳元にとどいた。振り向いた清隆の瞳に、白い掛け布団に反射した冬の陽が射し込んだ。
「父上、今日は武道場で磯貝さんと稽古をいたしました」
「そうか・・・・・神奈川県予選も近いのだな・・・・・」
 輝隆の顔は庭を向いたままであった。ほとんど真っ白になった頭髪が、枕元にばらけている。清隆は懐から櫛を取り出し、思いを込めるようにゆっくり梳き始めた。
 清隆が一人稽古を武道場ではなく庭の芝生の上で行うのは、父に見てもらうためであった。慈しむように額を撫で、首筋を優しく撫でながら、清隆は何時までも父の白い総髪を梳り続けた。呼吸の音すら聞こえそうな静寂の中、部屋の隅で石油ストーブの炎が揺れている。

「お待たせしました」
 父の食事を終え、清隆が座敷の襖を静かに開けた。
「白川! 『お待たせしました』なんて言わないでくれよ、友達じゃないか、『待たせたな』でいいんだからさ」
 ジャンパーを着込み、短髪で日焼けした顔から、白い歯をむき出すように岸部が言った。テーブルの上には、茶が出されており岸部はその前で胡座をかいている。清隆は下座に袴の裾を軽く払うと正座をした。
「白川さぁ、俺が言うのはなんだけど、膝を崩したらどうなんだい?」
「かまわないでくれたまえ、私はこの方が楽なんだ」
 清隆の正座姿は身に付いて実に端正である。背筋が伸び、しかも、心身共に緊張の影はなく脱力している。眼力のある武道家が見れば、まったく隙がなく、直ぐに戦闘に移れる体勢であることが見て取れるであろう。そして、むろん懐には、肌身離さず懐剣を呑んでいる。
 足音が聞こえてきた。低くこもった重量感を感じさせる音が腹に響く。軽口を叩いていた岸部の声が、一瞬とぎれた。
「おい、誰か来てるのか」
 この家には、清隆の他には女性しか廊下を歩く者はいないはずであった。

「いやぁ、いい湯でしたよ。やっ、お客さんですか失礼します」
 襖を開けると磯貝が入ってきた。ゆっくり湯に浸かっていたらしく、上気した顔をしている。彼は着替えも終えて、厚手の背広姿をしていた。
「おっ、お前は岸部じゃないか! 何故お前がこんなところにいるんだ?」
「だっ、旦那! いえ、あの、し、白川とは親友でして・・・・・」
 よほど驚いたらしく、岸部が眼を白黒させて、しどろもどろに答えたのも無理はない。小田原署の磯貝と言えば、ヤクザが怯えあがる猛者であった。
「お前が、清隆さんの親友だと! ばかも休み休み言え」
「磯貝さん、本当です。岸部の言うとおり、私の数少ない友人の一人です」 
 取りなすように、清隆が言った。
「友達・・・・・! うーん、似合わないな。清隆さん、友達は選んだ方が良いですよ。こやつはヤクザですよ、人間のクズですよ」
 磯貝は顎に手をやり、もったいぶるように言った。岸部は頭を掻きながら言う。
「いやだな、旦那それはないでしょう。おれ堅気になったんですから、ところで旦那はいつから白川の知り合いなんで?」
「知り合い? お前よりずっと前からの親友だ!」
「俺よりずっと前ってことは、白川が小学生の時・・・・・?」
「黙れ! お前ごときが、よけいな詮索をするんじゃない! たしかにお前は足を洗ったよな。ヤクザにも見放された半端者か・・・・・そういえば、もう何年にもなるが、不思議なことにお前の親分だった山本は、未だに失踪したままだな」
「あの事件から、三年か・・・・・」
 岸部が何の考えもなく、感慨深げにぽつりと呟いた。
「あの事件! 岸部お前何か知っているのか。隠すとただじゃおかんぞ」
「めっ、滅相もない。組長がいなくなってからというだけで・・・・・」
 岸部は自分が何を言いかけたかを知って、驚愕したのだろう。慌てて取り繕うように言いながら、横目で清隆の表情をうかがった。
 清隆はまるで他人事のように表情を変えない。
「おそらくは、対立していた沼津の新井組に消されたんだろうというのが、警察の考えだが、調べてもそれらしい証拠が出てこない。しかし、結果としてはよかったと言えるだろう。山本組の縄張りは小田原の三橋の傘下に入ったんだから。三橋、あれはヤクザながら大した男だ。お前みたいな半端者の面倒を見て生業につかせるところもあるからな・・・・・ところで、お前は大工の修行をしていると聞いたが」
 さすがに、磯貝はその筋の情報は掌握している。一方、話しが変わり安心したように岸部が言った。
「大工? ありゃだめだ、あの親爺けちくさくて人をこき使いやがって。そもそも、人間としての器が小せいや。いまは、造園の仕事をしております。一人前になったら白川家の庭を手入れさせてもらう約束をしてますんで、なあ、白川!」
「約束はしましたよ。しかし、大工見習いの時にも同じ約束をしたことがありました」
 清隆は、つれないことを言った。
「岸部、根性をみせろ。大工もだめ、あれも、これも駄目の中途半端で、結局ヤクザに舞い戻ったらお前、ほんとうにクズだぞ!」
「旦那、いっぱしの造園家になりますって!」
 その時、久江が部屋に入ってきて茶を入れ直した。
「もうすぐ、食事の用意ができます。岸部さん、クズは出入り禁止ですよ」
 久江の耳にも、磯貝の大声が届いたらしい。清隆は、食事の前に抹茶を久江に頼んだ。この家では、抹茶を日常的に喫する。茶碗に抹茶を入れ、ポットの湯を注ぎ、茶筅でかき回せば簡単に抹茶が飲めるのだが、なかなか世間一般には普及してないようだ。 
 岸部は考え事をするように言葉数が少なくなった。三年前の事件のことについて、そのうち口を滑らしかねないという恐怖にでも駆られているのだろうか。
つられるように磯貝のほうも、なにか考え事でもするように黙ってしまった。

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