空 蝉
<6>



 
「ぼっちゃん! 大変です! 早苗ちゃんが・・・・・」
 夕食の終わった後、清隆はいつものように数寄屋にこもっていた。食後一時間も経ったころであろうか、久江が駆け込んできた。彼女の吐く白い息が乱れている。四畳半の数寄屋は真ん中に釜が切られているが、今は畳がかぶせてある。水屋に一枝の白梅がさしてある側で、清隆は結跏趺坐を組み呼吸を数えていた。
「早苗ちゃんが、どうかしましたか」
「と、とにかく、来て下さい!大丈夫です・・・・・大丈夫だったんです!」
 久江は、清隆の手を取り母屋の方につれていく。彼女が数寄屋にいる清隆を呼び出すだけで異常事態と言えた。
「よく分かりませんね、なにが大丈夫なんです」
「早苗ちゃんが乱暴されかけて・・・・・」
 久江は母屋に向かう途中に事のあらましを清隆に語った。先ほど早苗が、泣きながら白川邸に駆け込んできたそうであった。髪を振り乱し、コートの前を握りしめており、久江を見つけると抱きついて来たそうである。コートの下のブラウスとスカートは引きちぎられていた。話しを聞こうとするが、物も言わずに久江にしがみつき、泣くばかりであったと言う。
 久江が警察に電話をしようとしたが、早苗はそれを強く拒否をしたそうだ。和子と恵子の服で着替えを済ませやっと何とか落ち着かせたという。
「幸いに、操は大丈夫だったんで、ほっとしました。いったいぜんたい何処の誰が、あんな酷いことをするんですかね」

「・・・・・清隆さん・・・・・」
 早苗は居間のストーブの前で正座をしていた。ジーンズとセーターを着て、膝の上に置かれた手の甲が、真っ白くなるほど握りしめている。
「怖かったろう、もう大丈夫だよ」
 うなずく早苗は、清隆の言葉を聞くとまた嗚咽を漏らし始めた。清隆は早苗の固く握りしめられた手の上に、そっと彼の細く冷たい手を乗せた。
 突然、早苗は清隆の胸に飛び込み剣道着を掴み抱きついた。清隆は、早苗の髪をそっと撫でつける。嗚咽とともに早苗の涙が、清隆の胸を濡らす。
「心配しないで、落ち着いたら私が送って行くから」
 その言葉を聞いたとたん、早苗は清隆の眼を見つめ激しく首を振った。その時、清隆はすべてを了解したように、早苗を軽く抱きしめ頬で髪を撫でた。
「ここで良いなら、居なさい」
「おいて下さるの?」
「ああ、何時まで居てもいいよ」
「本当に・・・・・本当に、居ても良いのね」
 早苗の瞳が輝いた。
「早苗ちゃんしだいさ、居たかったらいつまで居ても良いよ」
 その言葉を聞いた早苗はわずかに肩を落とした。彼女の気持ちを萎えさせたのを、清隆は感じていないように見えた。

 
 清隆は、磯貝より一週間前に早苗の父、近江一郎が七年の刑期を終え出所したとの話を聞いたばかりであった。早苗の様子がおかしくなったのも、ちょうど一週間前ぐらいだった。母親の明美は、夕食をすませた後には家を出て仕事に向かう。帰りは、早くとも午前二時ぐらいだと聞いていた。そして、今腕の中で震える早苗の態度で、清隆はすべてを了解した。
清隆は久しぶりに、白川邸の南正門横の脇門を開け外に出た。誰にも気づかれないよう静かに抜け出したのだ。夜は更けて深夜の十二時を廻っていた。早苗は久江の部屋で眠りに着いたことだろう。
 冬の冷気が鋭く清隆の剣道着を通して白い肌に突き刺さる。月明かりに映える清隆の瞳は暗く沈み込み、打紐にきつく結わえた頭髪を揺らし、まるで寒気を身体で切り裂くように歩みを進めていた。
 白川家の敷地から一町ほど歩いたところで、清隆は向こうから歩いてくる男に眼を止めた。髪をオールバックにし、革のジョンパーに黒いマフラーを、首を埋めるように巻きつけている。ポケットに手を入れ、肩を揺らし小石を蹴飛ばしながら歩いてくる。
 人通りの途絶えた砂利道を、素足に雪駄履きの清隆は背を伸ばし歩む。ほの暗い街灯の白熱球が円を描くように道を映し出す。清隆と男の視線が衝突し火花を散らした。
 鋭いが卑しさを秘めた眼が清隆を睨みつける。歳は四十を越した大男である。凶悪な雰囲気を醸し出し、明らかに堅気の人間には見えない。
「近江さんですね」
 清隆は懐手のまま静かに声を掛けた。
「お前は誰だ!」
 太く、相手を威圧するような声であった。
「白川の者です」
「なるほど、噂どおりだ。あんたが白川の息子だな。早苗の言うとおり、なかなかの色男じぁないか」
 近江一郎はポケットからゆっくり手を出した。修羅場を潜ってきた第六感が、清隆のただならぬ力量に感応したらしく自然に身構える。 
「お話があり、お伺いするところでした」
「早苗が、お前のところに居ることは分かっている。返してもらおうか」
「お断りいたします」
「なんだと! お前、自分が何を言ってるのか分かっているのか。人の娘を誘拐でもするつもりか」
「早苗さんは、十七歳です。彼女には彼女なりの意志があります」
 清隆はまだ懐手のままだ。近江一郎は、足を開き両手を自然に降ろしていた。マフラーに埋めていた首を伸ばし戦闘態勢を取っている。この体勢だけで、見る者が見れば素人ではないことが知れる。
「おれの子供だ! 煮て食おうと焼いて食おうと親の勝手だ! 早苗の意志はどうでもいい。改めて聞く、お前さんの意志はどうなんだ!」
「私の意志ですか・・・・・」
 清隆の瞼はピクリとも動かない。瞳は街灯の光を反射するのみで、内部からの煌めきは窺えない。
「なんなら、お前さんでも良いんだぜ。俺も七年間の務所暮らしの間にはいろんな事があった。若衆にずいぶん衆道を仕込んでやったよ。しかしお前さんほどの、美貌の若衆はいなかったな・・・・・抱かれてみたいと思わないか。いい思いをさせてやるぞ」
 近江はニヤリと笑い、舌で意味ありげに唇をなめ、濁った眼で清隆をねめつけた。
「どうした、美童さんよ。驚いて言葉がでないかい?」
「戯れ言が多すぎます」
 氷のような、冷ややかな返答であった。
「戯れ言か? 俺には、お前の眼を見れば解るんだが・・・・・まあいい、早苗をどうする。どうなんだお前の意志は!」
 近江一郎は、全身の神経を研ぎ澄まし清隆の次の言葉を待っている。

 清隆の眼は何処にも焦点が合っていない。おぼろな瞳をしたまま、懐からそっと手を抜き出した。殺気もなく、ごく自然なゆっくりとした動作である。
 近江の感覚は反応しない。それは、スローモーションのような動きであった。一歩を踏み出した清隆の懐剣が、正確に近江の左耳下の最も体表面近くにある、頸動脈を断ち切った。
 近江は眼を見開いている。血が噴き出した後でも、彼は何が起こったか事態を掌握してはいないように見えた。
 阿吽だ! 初動をまったく相手に悟らせず、何時切られたか解らない動き。あらゆる武道の極意『無拍子』であった。
 眼をかっと見開いたまま、近江の巨体は膝から崩れていく。
 清隆は手ぬぐいを懐から出し、懐剣を丁寧に拭き始めた。古刀、和泉守藤原兼定の懐剣は、今まで幾人の血を啜ったのだろうか。
 うつ伏せに倒れた、近江一郎の首筋からは血が勢いよくあふれ出て、砂利の土に吸い込まれていく。
 どのぐらい時間が経過しただろうか。近江一郎の屍を清隆は移動し、砂利をかき乱して血痕をかき消した。
 深夜の田舎道には人の気配はまったくない。清隆は近江の首筋をマフラーできつく縛ると、躊躇の色も見せずに屍を背負った。闇を背景に白熱灯に照らされた彼の歩みは、死体の重さを感じさせることもなく、白川邸に向かっていった。

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