空 蝉
<7>



 
 清隆は火の気のない自室で書籍をひもといている。和室の十畳は簡素の極みで、飾りと思われるものは、丸の一字、いわゆる一円相の掛け軸があるだけだ。家具類と言えば、書棚と文机だけしか見あたらない。清隆は相変わらず、洗い晒しの黒い剣道着に袴を着けていた。
 この部屋で色彩らしきものは、髪を束ねた清隆の藤紫の打紐だけである。事件から四日が経っていた。
「よろしいですか」
 襖の外で久江の声がした。
「どうぞ」
 久江が部屋に入ってきた。
「ぼっちゃん、明美がまた来ましたよ。早苗ちゃんを連れて帰ると言うんですがねぇ」
 早苗が白川邸に駆け込んで以来、明美は何度か早苗の様子を見に来たようであったが、清隆は対面していない。
「しかたないでしょう、母親なんだから」
「ぼっちゃん、早苗ちゃんをこのまま家に置くわけにはいかないんですか?」
「何時までいてもらってもかまわないけれど、まだ十七歳で母親が迎えに来ているんだったら会わせない訳にはいかないでしょう。そして、早苗ちゃんが帰るのを承諾したら、それはしかたのないことです」
「あの子、家に帰ったら女中代わりにこき使われるのは分かりきった話なんですがね。刑務所から出てきた父親がいたら、絶対に帰したりしないんですが・・・・・不思議なんですが、明美の言うには何処かへ行ってしまって行方知れずなんですって。まったく、あの夫婦の間に何であんな良い子が生まれたんだろう?」

 清隆が応接間に入った瞬間、香水のきつい香りが彼の鼻腔をくすぐった。近江明美は下座で頭を下げていた。間をおいて、彼女が伏せていた顔をそっともち上げた。その瞳に驚きの色が走った。彼女の瞳が、清隆の顔に張り付いたまましばらく動きを止めた。
 ゆるくカールした肩までの髪、いかにも男好きのする顔に艶っぽい眼をしている。黒い薄手のセーターが胸のふくらみを強調していた。
 清隆にとって明美とはこれが初対面であった。早苗が書道を習いに来始めたとき、父、輝隆に挨拶があったと清隆は聞いていたが、会う機会は今日まで一度もなかった。
「初めてお目に掛かります。早苗の母、近江明美でございます。いつも早苗がおせわになりながらご挨拶も申しあげず、失礼のだんどうかお許し下さいませ」
 なめらかな口の滑り、いかにもそつのない挨拶であった。
「初めまして、白川清隆です」
 清隆の隣では、久江がきつい眼をして控えている。
「実は、今日は早苗を引き取りに参りました。・・・・・いえ、私は早苗の母です、あの子が家を出た事情は承知しているつもりです。お恥ずかしい話しですが、半月前あの子の父親が出所して参りました。あの子とは七年ぶりの再会いだったのですが、夫の一郎は我が儘の乱暴者で、あの子と合わなかったのでございます」
 清隆は表情を変えずに明美の話を聞いている。
「失礼ですが、近江さん。早苗ちゃんが家を出るほど思い詰めていたのに気づかなかったんですか?」
 久江が、詰問するように横から声を掛けた。
「ご存じの通り、わたくしは夜の勤めですのであの子とはすれ違いになりまして、そこまで思い詰めていたとは正直なところ気がつきませんでした」
 そう言うと、明美は目頭を押さえた。その姿をみて、久江はさらに憤慨するように顔をこわばらせる。
「久江さん、早苗さんを連れて来て下さい」
 清隆が静かに言った。
「ぼっちゃん!」
「お母さんが迎えに来られたのです。早苗ちゃんの気持ちを聞きましょう」
「・・・・・分かりました」
 久江は渋々腰を上げた。あたかも、この女に会わせたら早苗が丸め込まれると思いこんでいるように見えた。

「早苗ちゃん!」
 早苗が入って来るなり明美は声をあげ、おもむろに立ちあがると腕を取り抱き寄せた。
「ごめんね、あなたの嫌いなお父さんはもういないから、さあ帰ろうね!」
 多少わざとらしく感じたのか、久江が詰問口調で言った。
「お父さんがいないとは、どういうことですか」
「四日前からどこかに行ったらしく、見あたらないんです。心当たりを聞いても消息がつかめません。あの男には本当に愛そうが尽きました・・・・・早苗、あいつが帰ってきても家には入れないからね。安心してね」
 早苗は小さく頷くと、清隆を見つめた。
「お父さんが帰って来るようだと、また来ればいい。その時は、ここにずっと居ればいいから。良いですねお母さん」
「結構ですとも、その時はお願いいたします」
 母の言葉に早苗は、自分を納得させるように静かに頷いた。 


 朝粥の食事がおわった。清隆は布団に手を入れ、輝隆の乾いた足をさすっている。この半年でずいぶん様子が変わった。いや厳密に言えば昨日との違いも清隆には分かる。彼の手の平には、浮き出た血管の感触が伝わってくる。
 寝たきりの輝隆は、常の年寄りの病人とはまったく異なる。何が違うかというと、我が儘を言わないのだ。清隆のするにまかせ、不服を言うことがない。
 清隆も父が何を考え、何を欲しているか分かるらしく、躊躇することなく介護の動作を行う。二人の間には、言葉による意志の伝達はほとんどない。
 二人の視線の先にある梅林では、十郎が散りはじめ、白加賀がちらほら咲き始めていた。白川邸の梅の木は、十郎、白加賀を合わせて百株はあるだろう。個人の庭としては希にみる立派な梅園といえる。
「父上、また明日から山籠もりをしたいと思います」
「そうか・・・・・」
「七日の予定ですので、宜しくお願い致します」
「お前には山の霊気が似合う・・・・・行ってきなさい」

 清隆が父に山籠もりを告げたのは、早苗が母に伴われて帰った翌日であった。久江にも山籠もりをすると告げた。十一月に山籠もりして三ヶ月目だった。彼は用意を始めた。用意と言っても山の中腹には白川家の小屋があり、そこには、米、味噌、醤油が常日頃から蓄えられており、小屋までは四輪駆動車で行くことが出来る。
 父の食事と身の回りの世話を済ませると、後事を久江に託し用意を始めた。着替え、寝袋、木刀、杖、真剣はいつもの持ち物だが、今回は化繊のシートにくるんだ大きな荷物も荷台に積み込み、清隆はハンドルを掴んだ。
 久江が門まで見送りに出た。
「ぼっちゃん、行ってらっしゃいまし」
「久江さん、父のこと、宜しくたのみます」
「まかせて下さい、心おきなく稽古に励んで下さい」
 南正門から銀閣寺垣に沿い左に折れると、東門の側を通り、道はそのまま山に向かう砂利道になっていた。二月の田圃は寂しい。あと一月もすれば緑の絨毯の中に蓮華も顔を出すだろうが、いまは冬枯れの黒ずんだ土がひっそりと沈み込んでいる。
 三十分も走っただろうか、車は右にハンドルを切り山道に入っていく。目指す山は、標高三百メートルを少し超えている。むろんこの山も含めこの一帯の山塊は、白川家の所有である。
 木々の間を車は喘ぎながら走っていく、むろん他にこの山にはいる車両などあるはずが無く、清隆は無心にハンドルを取っているように見える。この山道を維持するために、年間どれくらいの出費を白川家が負担しているのであろうか。
 小屋に到着し、前面の広場に車は止まった。木々に囲まれてはいるがかなりの広さがあり、小屋とは言うものの柱も大きい立派な木造の建物だ。
 清隆は荷物を小屋に運び込み、改めて荷造りを始めた。目的の山籠もりの小屋までは、さらに徒歩一時間ほどは山道を登らねばならない。 

 曽我の平野を見下ろす目的地に着いたのは、昼近くであった。ここから開けた眺望は、清隆の心に染みいるものがあるのか、遠く相模湾を見つめる彼の瞳は何かに憑かれているようにも見えた。
 驚くべきことに、山を登ってきた彼は雪駄を履いていた。むろん、身に着けている物は黒い洗い晒しの剣道着に袴である。
 清隆は昼食も取らずに小屋の掃除に取りかかった。三ヶ月ぶりの山小屋は、埃が積もっているものの、野外は冬枯れのせいで下草を刈る必要はない。
壺に水を汲むため、清隆は小屋の裏手の石清水が吹き出す小さな滝に向かっていった。水場に着くと、草鞋を取り、いつもの習慣どおりに白木晒しの下帯だけの姿になると、小さな滝の水に打たれ始めた。水量は多くなく清隆を包み込む程度である。彼が肌身離さず持っている蒔絵の施された懐剣は、側の岩の上に置かれ存在感を誇示していた。
 水に打たれながら眼下に広がる景色の中、白川邸の梅林と母屋に清隆の視線が釘付けになる。母屋の仏間に伏せる父輝隆は部屋の窓ガラスを通し、滝に打たれる清隆を見ているのであろうか。
「父上・・・・・」
 清隆の口から吐かれた微かな呟きは、水の音にかき消える。蒼く暗い灰色の眼をした白蝋の顔を湧き出た水が伝わっていく。
 清隆は下唇を噛みしめた。口の端からにじみ出た鮮血が石清水とともに清隆の下帯をうっすらと朱に染めていく。


 昭和二十二年五月初旬、戦後の混乱もどうにか落ち着きかけ、復興の響きが小田原を包み込もうとするころだった。
 白川輝隆は、小田原の鳳来寺の坐禅会を終え住職と話しながら帰るべく寺の山門に差しかかったとき、柱に寄りかかるように置かれたネルの綿入れに眼を止めた。
 不思議な物を見つけたように、輝隆は綿入れに近寄り中をのぞいた。
「おお! 赤子ではないか」
 そう言うと同時に輝隆は綿入れを抱え上げた。まだ眼もあいていない赤子は、綿入れの中で指をくわえてスヤスヤ眠っている。
「また、捨て子ですか、これで何人目ですかね」
 住職はやれやれまた厄介ごとが、という口ぶりであった。
「捨て子? 違う! 授かったのだ」
 住職の言葉に対する反応であろうか、輝隆は瞬時に言い切った。この時、白川輝隆は六十五歳、子供のことはとうに諦めていたはずである。振って沸いたような赤子の出現に、老境に入った横顔は色めき立ったように見えた。
 警察への届けを住職にまかせ、彼は赤子を下曽我の自宅に連れ帰った。
「おーい! 雅子! 子を授かったぞ」
 玄関を開けるなり、輝隆は大声を張り上げた。
「な、何事でございますか!」
 輝隆が大声を出すことは、滅多にないことである。驚いて雅子が玄関に出てきた。この時、白川雅子は明治二十年生まれの六十一歳であった。
 輝隆は鳳来寺での出来事をかいつまんで話した。声からは抑えきれない興奮が伝わる。
赤子を受け取った雅子は、思わず声をあげた。
「まぁ! かわいい!」
「そうだろうが。かわいいだろうが」
 雅子の言葉に満面に笑みを浮かべて輝隆は答えた。雅子の手の中で赤子は指をくわえスヤスヤ眠り続けている。
「久江ッ! 湯を沸かしておくれ」
 雅子も我を忘れて大声を出した。
「ほんとうに、おとなしくて可愛い子ですね」
 湯を取りながら、雅子が言った。
「家の子だ。引き取り手など現れるはずがない。我が家に授かったんだ。名前は何にしようか」
「そうですね。名前のような書き物も全然見あたりませんし・・・・・この子、普通とちょっと違った雰囲気がありますね」
「そう言えば、そうだな」
 輝隆は、雅子の腕の中で湯を取る赤子をのぞき込んだ。眼は閉じたままだが、うっすら生えている髪は金髪のように見えた。
 赤子は清隆と名付けられた。誕生日は輝隆と出会った昭和二十二年五月六日である。
 清隆と名付けられた幼子は、輝隆、雅子の夫婦はもちろん、久江をはじめ女中たちの間でも、猫かわいがりに可愛がられて育っていった。髪は金色を帯び、眼も蒼く、西洋人形のようであった。

 六歳になった時、清隆は父から書道と武道の手ほどきを受けるようになった。武道場での稽古の時などは母、雅子が常に付き添い見守っていた。
 清隆が七歳の冬、彼の身に大きな災難が降りかかった。下痢が二日間続いたあと、高熱に襲われたのだ。医者の診断では、冬には珍しい日本脳炎とのことであった。高熱が三日続き生命の危機を医者から申し渡されたとき、父、輝隆が清隆の宿命の前に立ちはだかった。
 輝隆は凍えるような寒気のなか、井戸水で身を清めると、総髪を打ち紐できつく縛り、下帯一枚の姿で清隆の枕元に仁王立ちになった。枕元に侍る雅子、久江の存在も無視するかのように、息子を睨みつけた。 
「清隆ッ! 死ぬことはゆるさん!」
 そう叫ぶと、清隆の掛け布団をはぎ取った。
「絶対にゆるさん!」
 その言葉とともに、和泉守藤原兼定の懐剣を枕元の畳に突き刺した。高熱で虚ろになった瞳で、清隆は懐剣の煌めきを見つめた。
 輝隆のあまりの行動に、雅子も久江も声すらあげることが出来ない。
「この懐剣は、白川家の魂だ! お前に託す。自分で鞘に収めよ!」
 そう言うと輝隆は息子の寝間着を剥ぎ取り全裸にすると、下帯一枚の身体で抱きしめた。
「雅子、掛布を被せよ! 清隆が良くなるまでこうしておる。医者が何と言おうと、この儂が治す」
 清隆は父の胸に顔を埋めた。彼の上体はかき抱かれ、足を絡められたまま心地よさそうに眼を閉じた。しばらくすると安らかな寝息をたて始めた。
 一昼夜まんじりともせずに輝隆は我が子を抱き続けた。その翌朝には、不思議に熱が下がっていた。夕刻になり、清隆が昨日来、初めて声を出した。
「父上・・・・・」
 そう言うと清隆は、今まで父に抱かれて微動だにしなかった身体を動かした。輝隆の手を離れ枕元に座ると、懐剣の柄を掴み力を入れて引き抜いた。清隆の白い裸体を背に、懐剣の刃が眩しく光を放った。
 見つめる輝隆の瞼からは、涙が滲み出ていた。
 それ以後、清隆は心身共に大きな変化を来した。不思議なことに瞳は、青色から蒼く暗い灰色になり、髪は灰黒色に変わっていった。
清隆は果たして、白川家の魂を手に入れたのだろうか、それとも・・・・・。

次ページへ小説の目次へトップページへ