空 蝉
<8>



 
清隆が山を下りて二日目の午後、近江明美と早苗の親子が白川邸を訪れた。清隆にお礼の挨拶とのことであった。
 応接間での話しを終えて、三人は庭に出た。明美はこの前と同じ黒い薄手のセーターに、金の細い鎖のネックレスをつけ毛皮のコートを羽織っていた。時々清隆の横顔に艶やかな笑顔を投げかける。
 そばの早苗は、母親とは対照的にセーラー服に質素なコートを着て、細い指を前に組み元気なく歩いてく。
 清隆が早苗に声を掛けた。
「早苗ちゃん、なにか気になることがあるのかい」
 早苗は首筋の上の清楚な横顔を横に小さく振った。
「この子、少し風邪気味なんですよ」
「それはいけない。君の木を見たら早く部屋に戻ろう」
 部屋のなかでの三人の話しの途中に、早苗の十郎と白加賀の木のことが出ると、明美がやけに気に入ったらしく木を見ようと二人を誘い、庭に出たのだ。早苗はあまり乗り気ではないように見えた
「この木です」
 清隆が指さしたところには、両手を拡げるように枝の張り出した十郎と、まだ若木の白加賀が寄り添うように生えていた。十郎の花弁はほとんど散っており、隣の白加賀の花弁は満開になっていた。
「なるほど綺麗だね、この二つが早苗の木かい」
 明美は幹に掛けられていた木札を無造作に手に取った。そこには、典雅な清隆の字で、近江早苗と鮮やかに書かれていた。
「早苗、お前は風邪気味だから部屋に帰っておいで。お母さんは、もう少し清隆さんに庭を案内してもらうから。いいでしょ、清隆さん」
「別にかまいませんが」
 そう言うと清隆は早苗を見た。彼女は俯いて小さな声で言った。
「はい・・・・・」
「さあ、案内して下さいな」
 おもねるような声で言った明美は、輝隆の手を取り庭の奥へ誘うようにゆっくり足を踏み出した。
 早苗の瞳が、握られた二人の手を注視していたことに清隆は気づかない。

「広いんですねえ、この庭は」
 梅林の奥に入っていくと外界とは遮断された感じになる。次第に明美は大胆になり、ハイヒールでは歩きづらいと、いつしか清隆の腕を両手で掴んでいる。
「あそこに東屋があるわ、少し休みましょうよ」 
 吹きさらしの東屋には、木製のベンチが置かれている。幸いなことに今日は風が弱い。二人は並んで腰を下ろしたが、明美は清隆の手を離そうとしない。
「歩いたら少し暖かくなったみたい」
 そう言うと明美は、毛皮のコートを脱いだ。彼女が足を組むと、クリーム色のタイトスカートが太腿の中程まで捲れ上がった。四十歳前の熟れた女性のスラリと延びた脚線は男心を騒がさずにはおかない。
 しかし、清隆の関心をかうことはできないようで、彼は顎をあげ梅の花弁を見つめていた。
「清隆さんに初めてお会いしたとき、私の胸はときめいたの。その瞬間、私の求めていたのは、この人なんだって確信したわ・・・・・」
 そう言うと明美は、自分の胸に清隆の手を当てた。清隆は明美のなすがままにさせている。 
「私の胸の鼓動が、乱れているのがわかるかしら」
 薄手のセーターを透して感ずる柔らかい乳房の感触に、清隆の血潮がたぎらないはずは無かろうに、彼は呼吸も乱さず黙したままである。
「清隆さん、じつは私の店に岸部さんが時々見えるのよ。彼ったら、俺の親友と言って清隆さんの自慢ばかりするの。あいつは本当に強いと言って」
「そうですか」
 岸部なら言いかねない。根は善人だが軽躁なところがある。
「そうなのよ。ヤクザとの抗争もあったみたいね?」
「彼がそう言っていたのですか」
「そうよ、慌てて口を閉じて、詳しいことは言わなかったけれど・・・・・」
 探るような目つきで明美は、清隆の横顔を覗く。清隆は明美の言葉にも動揺する風はなく、梅の花を見続けている。

 明美は清隆の手を太腿の上に持って行った。肌に密着した薄手のスカートが艶めかしく、さらに露出度をおおくした。
「たしかに綺麗な花ね、でもお願いだから私も見て欲しいわ」
 言われた通り清隆は、素直に明美のほうを向いた。潤んだ瞳に紅い口紅が清隆を誘っている。明美は唇を清隆の耳に近づけると、吐息とともに囁きだした。
「近江が、行方不明になる前に出会った近所の人に、白川邸に行ってくると言ってたそうだわ、清隆さんに心当たりがないかしら?」
 意味ありげな明美の言葉だった。彼女は清隆の顎を摘むと、そっと唇を寄せた。
「でも、そんなことはどうでも良いの・・・・・」
 そう呟くと明美は、紅い唇を清隆の薄い唇に合わせた。そして、腕を清隆の首に回すと強く吸い始めた。清隆は明美のするに任せている。
 冷静を装っている清隆だが、さすがに女性とは初めての濃厚な接吻に、心はかなりの動揺があったのだろう。不覚にも、枯れ草を踏み立ち去っていく小さな足音に気づくことはなかった。

 激しく唇を吸い続ける明美の両腕を取り、むずがる子供を諭すように、清隆はそっと身体を離した。
「帰りましょう。早苗さんが待ってます」
 そう言うと清隆は立ち上がり東屋を後にした。
「ちょっと、ちょっと待ってよ」
 明美は、毛皮のコートを羽織り清隆の後を追っていく。彼女の紅い唇からは、ニタリと薄笑いが漏れた。
 清隆が母屋に戻った時には、すでに早苗は帰った後であった。


「久江さん、なにを頑張ってるのですか」
 清隆が声を掛けた。二十畳はあろうかという奥の間では、畳一杯に書類を拡げ、久江と和子、恵子の三人が忙しそうに作業をしていた。
「あ、ぼっちゃん、今年の藤光会の準備ですよ。忙しいったらありゃしない」
 結構嬉しそうに、清隆の方を向くこともなく久江は答えた。
「案内状を出す前に、きちんと住所の確認をするのよ」
「はい、分かりました」
 久江の指示に、和子が住所録に眼をやったまま答えた。
「あの、料理の手配のことですけど、仕出し屋はいつもの花月庵でいいんですよね」
 恵子は料理の担当であるらしい。
「今さら変える訳にはいかないでしょうね。でも昨年の料理は少し問題だったわね、あたしからよく言っておきましょう」
 邪魔になると思ったのか、清隆は部屋を出て行こうとした。そのとき、久江が声を掛けた。
「ぼっちゃん、お茶の接待はお願いしますね」
 昨年の会合の時、毎年お願いしていた茶道の師匠が老齢に加え風邪のため、急遽、清隆が代役をしたのであった。
「それは困ります。昨年は急なことで、しかたなく茶を点てましたが、今年は勘弁して下さい」
「駄目です。昨年は大評判だったんですから、今年も是非、清隆さんの茶を喫したいと言う要望がたくさん届いています。考えてもご覧なさい、旦那様が元気な頃は、自ら毎年みなさんに、お茶を振るまわれていらっしゃたんですよ。白川家の当主の努めです。亡くなった奥様の供養です」
「はい、分かりました・・・・・」
 清隆は承諾させられてしまった。しかし、久江の言う通り評判はすこぶる良かったのだ。最近の茶道にありがちな華美を一切廃した、脛直極まりない、もののふの茶道は新鮮であったことは事実である。 
父、輝隆もそうであったが、清隆の茶道は一般の水準を遙かに超えている。清隆の茶を喫した財界の重鎮、石坂泰三翁をして『益田鈍翁の茶よりも見事である』と言わしめたほどであった。その時の清隆は、わずか十七歳であった。 
 茶道もむろん、剣道、書道においても、免状、印可のたぐいは清隆には一切無縁であった。
 彼に取って縁とは、はたして何であろうか。

 藤光会とは、今は亡き白川雅子を偲ぶ会であり、彼女から援助をうけた女性が会員である。毎年五月半ばの命日近くの休日に会合を持っていた。参加者は毎年百五十人を超える。子供を、夫を連れて人が集まり、白川邸の藤棚の側で宴を開くのだ。大きな天幕だけで十近く張ることになる
 藤光会の名前のゆえんは、慈心院殿雅空浄台藤光大姉という雅子の戒名から取ったものであり、藤の花が象徴になっている。
 清隆が家に来る六十過ぎまで、子供の授からなかった雅子は、女中を大事に自分の子供のように世話をした。近隣の貧しい家の女の子を、中学卒業とともにあずかり、高校に通わせた。その子の希望に添ったかたちで、援助を惜しまなかった。
 お茶、お花、洋裁の花嫁修業をして嫁いで行く子が多かった。婚礼が決まると我が子のように世話をやき、雅子は本当に嬉しそうであった。
 学業を続け、大学を卒業し独り立ちをした女性も多くいた。医大を卒業し医者になったものも数人おり、大学に残り教授になった者もいる。その他、画家、書家、官僚、弁護士、会計士、教師と多士済々であり、上昇志向の強い女性の間で、藤光閥との呼び名もあるほどの影響力があった。
 延べ百人近くの女性が、白川家を巣立っていった。中には久江より年上の者もいるが、輝隆が病気で伏せっている今、すべてを久江が取り仕切り、皆、久江だけには頭が上がらない。何と言っても雅子の死を看取り、その後も白川家に身命を賭して奉公しているのだ、文句の出る筋合いは無かった。

 白川家を巣立っていったのは、女性だけではない。数少ないながら、書生として世話になった男性もいた。
 その事件が起こったのは、清隆が十六歳のおりであった。書生が御殿場線、下曽我駅近くの踏切で飛び込み自殺をしたのだ。この二人目の自殺は輝隆に大きな衝撃を与えたらしく、以後、輝隆はこの書生を最後に、白川邸に男性を入れることはなかった。
 最初の自殺は、その三年前のことだった。倉の奥の目立たぬ場所で、梅の枝に紐をかけ、縊れて死んでいる書生が発見されたのだ。
 久江の報告を受けて、輝隆が現場に到着したときには、すでに、十三歳の清隆がその場に立っていた。枯れ葉の上に無表情で立ち尽くし、死体を見あげる少年は、蒼く暗い灰色がかった瞳で瞬きもしていない。風が少年の髪を嬲っていくのも気に掛ける様子は見えない。
 輝隆の脳裏に、静寂なその場の光景が強く焼き付いたらしく、彼は驚愕の表情を浮かべ言葉を発することも出来なかった。
 花のない梅林は寂しい。木の枝が槍のように大気を突き刺し、枯れ草は露を含んで濡れていた。学生服の青年の骸が首を縊り、だらりと垂れ下がっている。
 骸を見上げる剣道着に袴の少年は、骸を白い表情の窺えない顔で見上げるばかりであった。


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