空 蝉
<9>



 
「久江さん、財団法人の話しは実現しそうですよ」
「ぼっちゃん、その・・・・・財団なんとかって、何ですか?」
「矢野先生から聞いてないですか?」
「いいえ、知りません」
 清隆は訥々と話し始めた。話は藤光会を財団法人にしたいというのは、前々から輝隆が計画していたらしいく、今度、やっと認可が下りそうであった。設立の主旨は、女性を対象にした奨学金制度である。
 久江は、詳しいことは解らぬながら、藤光会と聞いては捨て置けぬとでも思ったのだろうか。
「藤光会・・・・・だったら、あたしがいなきゃ何ともなりませんよ」
「そうです。理事長は久江さんです。そして会長は、父が石坂泰三翁に頼みました。基金として父の所有する東京電力の株、額面で六十億円を当てるそうです」
「ぼっちゃん、財団とかも結構ですけど、あなたはどうされるのですか? なぜ大学に行かないのですか、高校時代の成績は神奈川県でも一、二番だったと言うじゃあありませんか。藤光会の会員に聞きましたよ」
 清隆の眉間にかすかに皺が寄った。よもや自分が責められるとは思ってもいなかったに違いない。和子と恵子が、また始まったとばかりにクスクス笑い出した。
「父の、世話がありますから・・・・・」
「そちらは、あたしが責任を持ってさせて頂きます。ぼっちゃんはどうするんだと、藤光会の会員に責められるのは、あたしなんですよ。また今年も言われそう。おおっ、いやだ!」
 久江は首をすくめた。藤光会に君臨する久江の最大の弱点は清隆にある。
「亡くなられた奥様にも、いまわの際に、くれぐれもと頼まれております。あたしは、ぼっちゃんが結婚して所帯を持つまでは、死んでも死に切れません。あの世で奥様に会わせる顔がございません。・・・・・そうだ! 早苗ちゃん! 早苗ちゃんがいい。母親はあんなだけど、あの子だったら・・・・・今は家柄がどうのこうのという時代じゃないんだ。何故今まで気づかなかったんだろう・・・・・」
「書の稽古をするのを忘れてました」
 と言うと清隆は立ち上がった。
「ちょっと! ぼっちゃん、ちょっと待ってください!」
 久江の呼びかけに、振り返ることもせず清隆は部屋を後にした。


 四月も初旬になると、庭の白加賀の花弁も散って影もない。白川邸の梅林は来年の大寒までのながい眠りにつくことになる。
 今は桜の季節である。正門の横にある染井吉野は今や満開であった。
 白川邸に桜の木は多くない。ごくありふれた染井吉野が南正門の側に数本と、数寄屋の側の小道を奥の方に歩いていったところに、十本ばかり植えられているだけだった。
 清隆は、数寄屋に隣接した離れの間で、線香を立て足を結跏趺坐に組んだ。今から三香柱、約二時間の坐禅が始まる。すでに先ほどの、久江との会話による心の動揺は去って、気持ちを一点に集中し始めた。
 坐禅をして無念無想になるというのは、明らかに間違いである。
『無念無想が坐禅の本質ならば、なにも座ることはない。酒を喰らって、博打をしたほうが、余程良いに決まっている。そのほうが無念無想を体現できる』と提唱されたのは、かの大森曹玄老師である。
 坐禅の提要は、意識的に精神を集中することにある。その為に、公案があり、数息観がある。坐禅に公案を授かる師を持たぬ清隆は、もっぱら呼吸を数える数息観に終始する。
 眼を半眼に開き、聴覚、触覚ほか身体中の感覚を研ぎ澄まし、吐き、吸い、の呼吸を一から十まで数える。清隆ですら一香柱に、四回繰り返すのがせいぜいであった。

 清隆の鼻腔から地を這うような長い呼気が流れたあと、短い吸気が大気を肺に運び込む。彼は専一に呼吸を数えることに集中しているのだろう。
 離れからは母屋の仏間が右隅に見える。彼の心を乱す、いや、こだわり続けているであろう老人が横になって、静かに呼吸をしているはずだ。長年にわたる禅の修行を積んだ老人もまた、呼吸を数えているのであろうか。


「ぼっちゃん、先週も今週も早苗ちゃんが来ませんよ、どうしたんでしょうね。無断で稽古をさぼるような子じゃないんだけどね」
 久江が心配そうに話しかけてきたのは、清隆が池の端を熊手で掃いている時だった。寒気が緩み春を迎えると、芝生は霜に痛めつかられることもなくなり、勢いよく緑を濃くしていく。
「私も少し心配しています」
「ぼっちゃん、もう少しここにおいてあげた方が良かったんじゃないでしょうかね・・・・・家に電話を入れるんですけど、誰も出ないんですよ」
「久江さん、来週も来ないようだったら、悪いんですが・・・・・」
「分かってますよ、私が家に様子を見に行ってまいります。それで会えなければ、学校にも行ってまいります」
「すみませんがお願いします」
「ぼっちゃんは、どうしてそんなに外に出るのが嫌いなのですか」
「・・・・・怖いんです・・・・・」
 竹箒をだらりと下げ、清隆は池の水面を見つめながら小声で言った。池の中では真鯉がゆったり泳いでいる。
「何を言ってるんでしょうね。あの、怖い者なしの磯貝さんが申されてましたよ。清隆さんほど強い男はまず居ないと」
「そうですか・・・・・強いってなんでしょう」
「あたしも、強がってはいますが清隆さんが居られるからこそ、女と老人の白川家は誰が来たって安心なんですから」
「先方から来るぶんには構いません」
「でも、学校へは一日も休まず行ってらしたじゃありませんか」
「厭でした。でも、父が望んでいましたから・・・・・」
「そう言えばぼっちゃん、毎日お世話されていますが、旦那様の具合はどうなんですか」
「良くありません」
「そ、それじゃお医者様を呼ばなくては」
「無駄でしょう」
「えっ! そ、そんな!」
「父が梅の花を見ることは、もうないと思います」
 驚き狼狽える久江の側で、さりげなく深刻な発言をする清隆の蒼く暗い灰色の瞳からは、一切の表情が伺えない。彼が手に持った熊手は、だらりと垂れたままであった。

 池の周りの掃除を終えた清隆は、南正門に場所を移し、桜の花びらの舞う石畳を竹箒で掃き始めた。
 掃除は禅にとって極めて重要な作務である。立ち居振る舞い、呼吸、視線に細心の注意をはらい、清掃に没入しなければならない。坐禅とまったく異なるところはないのだ。 門の内側を塵一つなく清めると、清隆は門の外側の作務に移った。わずか数本の桜ではあったが、散った花びらは門の外にも散乱していた。
「清隆さん・・・・・」
 艶っぽい女性の呼びかけに、清隆は竹箒を止めると、静かに長い髪をゆらして振り向いた。
「清隆さん、先ほどからお待ちしてましたのよ」
 声を掛けてきたのは明美だった。
 青磁色の訪問着は、華麗な桜友禅模様に染められている。山吹色の袋なごや帯を締め、美容院に行ってそのまま来たらしく、髪はきちんと結い上げられていた。
「何か・・・・・」
「ほんとうに綺麗な桜ですわね。お屋敷の桜を拝見したくて参りましたのよ」
 門の横に咲いている花弁を見上げながら明美は言った。見上げる彼女の横顔は、あきらかに清隆の視線を意識している。
「かまいません、どうぞお入り下さい」
 清隆は掃除の手を止め、脇門を開くと彼女を招き入れた。
「本当に綺麗ね! 清隆さん、お屋敷の桜はここだけですの?」
「奥にもう少しあります」
「ご案内していただけませんこと」
「いいですよ」
 明美は着物の裾を気にするように、しなをつくりながら歩いていく。

「まぁー、素敵な鯉ですこと! なんて大きく艶やかな錦鯉ですこと」
 池には人の眼を惹き付けずにはおかない、何ものかが潜んでいる。白川邸の庭を歩く者は必ずと言ってよいほど、池の端に足を止め水面をのぞき込む。
「艶やかさを私は好みません」
「えっ、何故ですの?」
「媚びを感じます。おもねるような厭らしさを感じてしまうのです」
「おかしな事を仰いますのね・・・・・。清隆さん桜のほうへご案内願いますわ」 
 さらりと流した明美ではあったが、清隆の言葉をもう少し心にとめるべきであった。
 清隆の色彩に対する感覚は常人とはかけ離れたところがあった。それに、最初に気づいたのは母、雅子である。視覚神経が異常ではないかと医者で検査をしたが、異常性が見つかることはなかった。
 
 数寄屋の奥の小道を二人は歩いていく、いつのまにか明美は清隆の手を取っていた。彼女の襟を抜いた着物からのぞく、白いうなじが清隆に誘いかけている。 
 さらに、外界の音も聞こえないような奥に、二人は入って行った。明美は大胆に清隆の腕ににしなだれ掛かりはじめた。 
 何とも言えぬ甘い香りが、彼女のうなじから漂う。
「桜の花はなんて艶やかなんでしょうね。やはり、日本の花は桜ですわね」
「私はあまり好みません」
 明美の問いかけに、清隆は短い返答をするばかりであった。
 我が国において桜がもてはやされるようになったのは、いつの頃からだろうか。万葉時代は花と言えば梅であった。桜はほとんど出てこない。

「まあっ、なんて綺麗な!」
 一瞬、明美は言葉を失った。その光景は突然に出現したのだ。あたかも、そこだけが別空間のように十数本の染井吉野が満開に咲き乱れていた。
「こんなに綺麗なことが・・・・・!」
 散り敷き詰められたような花弁に、明美の草履は埋まっていた。かすかな薫香も漂っている。桜の薄い香りが明美の心を誘ったのであろうか、彼女の頬は上気し、心を映し出すように輝いていく。
 清隆の蒼く暗い灰色の瞳には、感情の変化が見られない。
 明美は振り返ると、潤んだ瞳で清隆を見つめた。
「私の求めていたのは、これだったんです。この感動をとても言葉で表すことは出来ませんわ」
 明美は両手で抱くように、清隆の冷たい手を豊かな胸に押し当て、誘うような眼で見つめ続けた。
「早苗ちゃんが、最近来ませんが?」
「ああ、あの子は大阪に行きました」
「大阪・・・・・」
「ええ、前々から大阪の親分さんに望まれていたんですが、やっと決心してくれました。あの子が清隆さんに気があるのは分かって居りましたが、淡い初恋で幼い心の迷いです。本当の恋が出来るのは少なくとも後十年は掛かります」
「そうでしょうか・・・・・」
「そうですとも、わたくしはこの歳になって初めて、本当の恋に出会ったという確信があります」
 明美は留まることを知らぬげに、饒舌に話し続けた。早苗が妾になったことで、賭場で作った借金を立て替えてもらい。多額の金子を受け取ったそうである。むろん今日の和服もその金で購入したものであるらしい。
 早苗が大阪行きの決心をしたのは、先日、母親と清隆の濡れ場を目撃したせいであった。
明美は早苗に、自分と清隆は肉体関係があり、お互いに愛し合っていると吹き込んだ。その芝居が先頃、二人が清隆を訪ねた日であった。
 仕組まれた濡れ場ではあったが、明美の恋情は本物であった。

「わたくしは、清隆さんにお目に掛かり直ぐに分かりました。あなたは、早苗に恋をしているわけではないことが。親分さんに可愛がってもらい、彼女も本当の恋ができるようになるでしょう」
「本当の恋ですか・・・・・」
 早苗の身に起こったことを聞いても、清隆はそれほどの動揺はないようで、彼の意識は別のところに漂い始めた。
「清隆さん!」
 背伸びをすると明美は清隆の首をかき抱き、陶然とした瞳で唇を合わせてきた。激しい熱情の籠もった口吻であった。
 片手を離した彼女の白い指が、清隆の黒い袴を通して股間に伸び、微かにまさぐり始めた。清隆はあがらいもせず、彼女のするに任せている。彼の瞳は瞬きもせず乱舞する桜の花弁を見続けていた。

 清隆の両腕が動いた。白く、すらりととした腕は、明美の腰と背を支えると、彼女の身体を降り積もった花弁の上に仰向けに横たえた。清隆の薄い唇が、明美の唇に軽く合わされた。清隆のほつれた長い髪が数本明美の頬を撫でる。
「ああっ、清隆さま・・・・・」
 明美の首は仰け反り、着物の裾は大きく割れ、白い脚が淫らに清隆をさそう。明美は期待と陶酔の中落ち込んだように見える。彼女の陶然とした瞳は、何も見えてはいないようであった。
 むろん、清隆の右手に握られた懐剣が放つ怜悧な輝きを見ることはなかった。
 一瞬であった。痛みを感じたらしく明美の眉間に僅かに皺が寄った。
 懐剣は左胸から心臓に向かって静かに沈み込んでいく。清隆の手の動きには、ためらいは見られず、懐剣は一定間隔でゆっくり進入していった。
 花弁が彼女の眉間に一枚、一枚と降っている。
 清隆は、ふたたび明美の唇を強く吸うと、ゆっくり身を離した。彼女はすぐにもとの淫らな世界に帰っていったらしく、紅い口もとに嫣然とした微笑みを浮かべていた。

 心の臓を刺されたにもかかわらず血潮は噴き出ない。青磁色の訪問着が、徐々に濡れていく。深紅ではなく、赤黒く着物の胸元が染まっていった。
更に出血は続いていく。襟元の白い襦袢が少しずつ紅色に染まっていった。
 風が吹いた。桜が舞う。明美の身体を埋め尽くすかのように、花弁が降りしきる。
 裾が乱れ、あられもなく剥き出しになった太腿の肌から色彩がきえていく。たえだえに細い呼吸をする明美の表情から、淫蕩の笑みが消え去ることはなかった。
清隆は、明美の生命の灯火が消えていくのを見おろしている。明美の血を吸った懐剣は右手に握られ、だらりと垂れ下がっていた。
 懐剣、和泉守藤原兼定の刃が一閃した。降り続く桜の花弁が一枚、空気とともに両断された。
「媚びをうるものは卑しい・・・・・」
 清隆は誰に言うともなく呟いた。
 やむこともなく降り続く桜は、少しずつ横たわる明美の身体を隠していく。彼女の足下に落ちていた紫色の風呂敷を、清隆は手に取ると細い指で解きはじめた。
風呂敷の中身は、一冊のアルバムであった。梅の押し花が、年号とともに整理されていた。
 早苗は清隆に対する思いを、母親に託したのであろうか。
 物音もたてず桜が降りしきる。
 数日後に、清隆はまた山籠もりをすることになるであろう。

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