空 蝉
<10>



 
 今年の藤光会は五月六日に開催された。奇しくも清隆の誕生日、すなわち小田原の鳳来寺で輝隆に拾われた日であった。清隆には拾われる前の記憶は当然ないが、情報も何もないということは、存在しないことだとも言える。だとすると、彼の存在は鳳来寺での輝隆との邂逅より始まったとも言えるだろう。
 清隆は午前十時に、藤棚の側の仏間から見える位置に毛氈を敷き、野点を始めた。五月の陽は暖かく、風はおだやかに藤棚を通りすぎる。藤の花は白と薄い紫の二種類であり、まさに彼の打紐、藤紫の色であった。
 野点の茶には取り立てて点前、作法というものはなく、それだけに茶道の世界では難しいとされ、もてなす者の力量が如実に表れてしまう。
 毎年のことであるが、藤光会は絢爛、華麗な宴である。出席者の大部分が女性であり、和子、恵子ともに、二十歳になった祝いに白川家より拝領の振り袖を着て、嬉しそうに動き回っている。久江もいつもの黄八丈ではなく、今日は小紋を身に着けていた。

 清隆は洗い晒しの剣道着に袴のいつものいでたちで、毛氈の上に正座をして軽く眼を閉じている。あたかも、心を閉ざしているように見えたが、客人に悟られることはないようで、みな嬉しそうに順番に清隆のもてなしを受ける。
 清隆が動くたびに、廻りの空気が清浄になるように思われた。
「本当に清隆様のお手前には、うっとりしていまいますわ」
「ぜひ、毎年お願い致しますわ」
 賛辞の声が次々に浴びせられる。そのたびに清隆は軽く頷く。
 客の中にはかなり、突っ込んだ質問をするものもいる。
「清隆様は、団茶の心得もあると聞き及んでいますが?」
「はい、心得というほどではありませんが」 
「団茶の作法は、失伝してしまったと言う説もありますが」
「失伝はしておりません。わずかに伝わっております」
 団茶は中国の唐の時代に隆盛を極め、陸羽が表したという「茶経」は団茶に着いての叙述である。日本では平安時代に喫されていた。
 今、清隆の点てている抹茶は宋代に流行し、いずれも中国では消滅し、現在では、明時代の煎茶しか中国では喫されていない。そして彼はまた、日本の煎茶道にも通じていた。
「日本においては、すべてが伝承されるのです」
清隆の言う通り、日本人の性であるのか。日本列島は、あたかも正倉院のようにすべてを保存している。

「清隆さん、俺にも一服たのみますよ」
 野太い声がした。磯貝警部補であった。藤光会とは無縁であるはずだが、彼は警備のためだと言って、非番の部下を四人引き連れて押しかけて来たのだ。
 剣道家の常として、颯爽として姿勢は正しい。無駄な肉がなく筋肉質だが、すらりとした長身である。無精髭を生やしているところは、ご愛嬌というものだろう。華やかな女性の中にあっても存在感がある。
「神奈川県予選は如何でしたか」
 清隆は茶筅を動かしながら、磯貝に眼を移すことなく言った。
「いやーっ、毎年のことです。準決勝で敗退の憂き目にあいました。まあ、そんなところでしょうな。一言で言えば稽古不足です」
「お仕事が大変でしょうから」
「いい稽古相手が居ないんです。今後は、大会前ではなく、ちょくちょく稽古に参ろうかな」
 顎にてをやり無精髭をなでる、磯貝の清隆を見つめる目つきは、彼の声とは異なり真剣な光を宿していた。
「磯貝さんなら、いつでも歓迎です」
 清隆が茶を点てた碗を、白くすらりとした腕で磯貝に差し出した。爽やかな五月の風が垂れ下がる藤花を揺らし、白磁の額にばらけた幾ばくかの頭髪をなぶっていく。
 清隆は眩しそうに眼を細めている。
「ほ、ほんとですか? 毎月、いや毎週でも良いですか?」
「ええ・・・・・」
 目の前に出された茶碗を、磯貝は見向きもしないで身を乗り出した。彼の瞳に妖しい輝きが顕れた。彼の眼には、まわりの華やかな女性の姿は映っていない。

「磯貝さん!」
 きつい声であった。磯貝が我に返ったように振り向くと、久江が手を腰に憤慨した顔をしていた。
「あなたが警備の為だと言って来られたので、会への参加を時別に許してあげたのですよ。そのことをお忘れないよう」
「警備は四人がしっかりやっております」
 磯貝の声は勢いがない。久江に気圧されたように見えた。
「皆さん並んでお待ちなんですからね、早く飲んで次の人にかわってください」
「は、はい、承知しました・・・・・」
 しぶしぶ、磯貝は立ちあがると名残惜しそうに、その場をあとにした。元気なく池の端まで歩くと、彼は顎をあげため息を吐いた。ちょうどその時だった。
「警部、若い男が中に入れろと門のところで騒いでいます」
 巡査らしき若者が磯貝に報告に来た。
「なんだ、そいつは!」
 磯貝は機嫌が良くない。
「あまり品の良くない男で、『岸部だ、清隆の親友だ!』と喚くんです」
「追い払え! おかしな奴は一歩も中に入れるな」
「ハッ、承知致しました」
 巡査は腰に手をやり門の方へ駈け出した。可哀想な岸部ではあったが仕方あるまい。久江も許すはずがないではないか。 
 華やかなざわめきを遠くに聞きながら、水面を見つめる磯貝の眼は、うつろであった。彼の欲動のある部分に火がついたらしく、側頭部の血管が青く浮きでていた。


 毛氈の上では茶の接待が続いている。一度に四人の接待をするのだが、希望者はまだ多くいる。女性の華やかな笑い声が、あちこちで高らかに生を謳歌している。
 清隆は手伝いをする恵子に耳打ちをした。
「もう、十一時半になりました。後は午後の部ということにしたいのですが」
「分かりました。久江さんに伝えて参ります」
 立食パーティーの準備は先ほどおわり、人々はそれぞれグラスを取り、皿を手にしている。
 そつなく応対をしていた清隆だったが、やはり、この場を納めるのは久江が適任である。

 茶の接待はひと休みとなった。母屋の裏の勝手口についたところで、清隆は肩を落として大きく息を吐いた。人と接するのが得意でない彼にとっては、緊張の連続であったのだろう。 
 横手にある井戸のポンプで水を汲み出すと、顔を洗い、打紐を解き、改めて結び直すと、彼は勝手口から中に入っていった。

「失礼します」
 輝隆は仏間に入った。父、輝隆は仰向けに寝て、微かに開いた眼で天井を見つめている。障子は開かれ、縁のさきにあるガラス戸を通して庭が一望できた。五月の日射しは布団の縁まで届いているが、輝隆の身体に射すことはない。
 雅子の位牌は仏壇からは外されて、今日は藤棚に祭られている。
 清隆は掛け布団を外し、座椅子を入れようとした。その手がハッと驚いたように止まった。彼は父の掛布をもとに戻した。
 彼は父の額を、髪を、微かに震える手のひらで撫で始めた。父は静かにされるままにしている。
清隆は手の動きを止めない。眼は父の顔に釘付けにされたままだ。

 庭では華やかな宴が催されていた。艶やかな振り袖姿の女性が舞うように動いている。
生き生きと生命の息吹の躍動が踊る。和子の、恵子の顔も見える。久江が忙しそうに溌剌と指示を与えているようだ。
清隆の瞳が庭を向くことはない。ひたすら、染みの斑点が浮き出た老人を見つめている。眼をこらせば、微かに彼の瞳が霞んできているのがわかるだろう。眼球は間違いなく湿りをおびてきている。しかし、ほとんど表情は変わらない。感情が欠落しているのか、あるいは感情を表現する術を失ってしまったのだろうか。
「・・・・・梅は散ってしまったな・・・・・」
 かすれるような細い声であった。清隆は父の耳もとに、唇を近づけた。
「父上・・・・・」
「藤が咲いている・・・・・」
「はい・・・・・」
「・・・・・さきに行く・・・・・」
 これが、輝隆の最後の言葉となった。父の手首を握る、清隆の手に伝わる微かな脈が、不規則になっていった。止まり、また打ち始める。その間隔が長くなる。そしてついに、脈動は途絶えてしまった。
 清隆は手を差し出し、うすく開いていた父の眼をそっと閉じさせた。彼はその後も何もなかったかのように、髪を梳り続けていた。

 清隆は台所に戻り、盥に湯を満たすと仏間に戻ってきた。手拭いに湯を浸すとゆっくり額から拭い始めた。唇を濡らし、襟元をはだけ、かさかさに乾いた胸元を湿らせていく。
 寝間着の帯を取り、下帯を外すと身体全体を慈しむように清めていく。あたかも臨終を確信していたかのごとく、顔の表情は変わらず瞳も潤んでいない。しかし、清隆の白い指は小刻みに震え続けていた。
 丁度その頃、庭園では小さな騒ぎが、波紋のように拡がっていた。ガラス戸から外を眺めれば、すぐに異変が分かるはずだが、清隆は気づくことはなかった。
 彼はひたすら、清め終わった父の裸身を網膜に焼き付けるがごとくに、瞬きもせず見続ける。

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