「ぼっちゃん、ちょっとよろしいでしょうか?」
どの位時間が経過しただろうか、久江が仏間の外の廊下から、襖越しに憚るように声をかけた。抑えた声であったが、興奮は隠しきれない。
「・・・・・どうぞ」
清隆の返事に淀みはない。
「失礼します」
久江の目に映った光景はいつもと何ら変わることはなかった。輝隆は軽く眼を閉じ仰向けに安らかに横たわっている。清隆が身体を拭いたのであろう盥から、僅かに湯気が出ている。久江は輝隆が死んでいるなぞ、露ほども感じていないようであった。
「ぼっちゃん、さ、早苗ちゃんが・・・・・!」
「えっ・・・・・」
「か、帰ってきたんですよ!」
久江は病人を気遣うように、必死に興奮を抑えながら清隆に耳打ちをした。早苗が白川家に顔を出さなくなって以来、探し回っていた久江は、すでに早苗が関西に行ったことの、大まかな事情は知っていた。したがって『帰って来た』という言葉は、ごく自然に彼女の口から出た言葉であった。
「早苗ちゃんが・・・・・すぐ参ります」
そう言った時には、すでに清隆は立ちあがっていた。横たわる父の亡骸に軽く会釈をすると、彼は仏間を後にした。
久江が輝隆の手を引っ張るようにして、応接間に連れて行く。
「・・・・・ほんとにねえ・・・・・もう・・・・・」
久江の言葉はほとんど意味をなさない。
「早苗ちゃん、ぼっちゃんよ!」
襖を開けると、応接間の隅でぽつねんと座っていた早苗に久江が声を掛けた。早苗はおずおずと顔をあげた。早苗が眼にしたのは、おそらく彼女が初めて眼にする、優しく包み込むような清隆の笑顔だった。早苗はいつもと同じような、白いブラウスに薄手のカーディガンの清楚な身なりであった。髪には、これまたいつものヘアーバンドを付けていた。
「清隆さん・・・・・!」
後は言葉にならず、早苗の瞳から涙が溢れてきた。
「・・・・・早苗ちゃんお帰り」
清隆の声は早苗を慈しむように包んだ。清隆はそれ以上は何も言わない、清隆の表情は今までになく、おだやかに微笑んでいる。
久江も清隆のこのような明るい表情を見たのは初めてな気がした。
その時、大きな足音がしたと思うと、勢いよく襖が開けられた。入ってきたのは磯貝だった。
「おおっ、ここだったか! 清隆さんもいたか」
「磯貝さん、あいつらはどうなりました?」
心配そうに久江が尋ねた。
「心配しないで下さい。奴らは小田原署にしょっぴいて行きましたよ。どうせ堅気じゃない男達だ、絞り上げて二度と手出しが出来ないようにしてやります。だから娘さん、心配はいりませんよ」
磯貝は早苗を安心させるように自信たっぷりに話しかけた。しかし、早苗の気持ちの動揺はまだ収まってはいないように見える。
「じっさい、バカな奴らですよ。ガードマンと、現職の刑事の区別もつかずゴロを巻くんですから」
「ゴロを巻く・・・・・?」
久江には意味がよく分からない。
「あっ、失礼。喧嘩を吹っかけるという意味です」
「それにしても、どうしてこの様なことになったのですか」
清隆は、事態が全く飲み込めていない。
「あっ、ぼっちゃん、わたしが早苗ちゃんから聞いたことを話しますよ。いいでしょ早苗ちゃん?」
「・・・・・はい」
久江の話によると、早苗が曽我に来たのは、母親との連絡が取れなくなった為だという。アパートに何度電話しても出ず、職場や立ち入りそうなところもあったが、連絡は取れなかった。思いあまった早苗は、世話になっている旦那に懇願して、帰省の了解を得たのだった。
しかし、早苗にご執心の旦那は、護衛と称して、組織の若い者二人の見張りを付けた。アパートや職場を訪ねたが行方が分からず、もしやと思って早苗は意を決して白川邸を訪れたのだった。
門の前で躊躇している早苗を、藤光会の警備をしていた二人の刑事と、巡査が見つけた。人相の良くない男が、若い娘を引っ張っていこうとしているのを見て、職務質問をした。 早苗は白川家の門の前で、懐かしさのあまりに、思わず『・・・・・助けて、清隆さん・・・・・』と呟いたという。それですべてが決してしまった。騒ぎを聞きつけた駆けつけた磯貝警部補に見張りの男は散々に叩きのめされてしまったのだ。
「早苗ちゃん、もう大丈夫だからね、この家にずっといなさい。あなたもひどい眼にあったわね・・・・・」
久江の言葉は、語尾のほうがかすんでいる。
「お母さんは、こちらには・・・・・」
「来るもんですか、来られる筈がありません」
「でも・・・・・」
早苗はすがるような眼で清隆を見つめた。
「早苗ちゃん、こちらには来ていませんよ。あなたは、私とお母さんの関係を誤解していますね。何にもありませんよ」
「でも私は・・・・・見たのです」
「見たと仰るなら、よく思い出してみて下さい。私はあえて拒絶をしなかっただけですよ、あれだけで、それほどのこととは思いませんよ。早苗ちゃんを傷つけてしまったのなら謝りますが、あなたのお母さんには、あなたに見せる思惑があったとは思いませんか」
清隆にとっては珍しく饒舌に話す。
「えっ、それじゃあ・・・・・」
早苗の眼が輝いた。一瞬、曇天の空から陽が差し込むような明るさだったが、またすぐに陽は隠れてしまった。
「清隆さん、わたし、汚れてしまいました・・・・・」
「な、何をいうんだねあんたは! とってもきれいだよ。以前とまったく同じ早苗ちゃんだよ!」
久江は興奮気味に言うと早苗の手をとった。
「早苗ちゃん、きれいですよ」
清隆は、優しく早苗に言った。
「ほんとうに?」
「本当ですとも、証拠を見せてあげましょう」
そう言うと、清隆は立ち上がり部屋を出て行った。表情のないいつもの清隆とは異なり先ほどから彼の顔には、明るい表情が浮かんでいた。心のわだかまりが吹っ切れたようにも見える。
それほど待たせずに、清隆は書道の道具を持ち出してきて墨を擦り始めた。早苗、久江、磯貝は、精魂をこめて墨を擦り続ける清隆の手元を見ながら、あまりの真剣さに、声を発することが出来なかった。
清隆は早苗の前に白い半紙をひろげる。
「さあ、早苗ちゃん、一の字を書いてごらん」
「えっ、でも最近書いてないから」
早苗は戸惑いの色を浮かべた。
「いいから・・・・・」
清隆の瞳はあくまでも優しく菩薩のようであった。
早苗は、正座の姿勢を正し静かに黙想を始めた。どのくらい眼を閉じていただろうか、静かに瞼を開き、清隆の擦った墨を筆に含ませると微かに息を吐く。呼吸を止めると半紙に一気に一の字を書いた。
書き終わると微かに息を吸う。
「早苗ちゃん、どうです。この一の字は汚れていますか」
墨痕鮮やかに書かれた一の字は、清逸で凛とした気高さを醸し出している。
「境地が進みましたね。君の今までに書いた字の中で最高のものですよ」
「・・・・・」
早苗は何度も頷いた。眼には涙が溢れている。
久江は、母屋の一番奥まった部屋に早苗を連れて行った。早苗の気持ちは落ち着き、醸し出す安らぎの雰囲気に、久江は安堵の胸をおろした。さすがに、この奥の部屋には宴の物音も聞こえてこない。布団を敷くと早苗に寝て休むように久江はすすめた。さすがに疲れと安堵からか、横になるとすぐに早苗はかすかに寝息をたてはじめた。久江の眼には天使の寝顔に映る。この子の面倒は私が見なくてはと、彼女の心には決するものがあった。
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