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杖道紹介 短杖術
神道夢想流杖術の由来 神道流剣術の型
神道夢想流杖術の型 内田流短杖の型
神道夢想流杖術における型の意味(前) 神道夢想流杖術における型の意味(後)





 神道夢想流杖術における型の意味

 


 

 基本的に、世に良書は溢れており、技術論は百家争鳴、私ごとき未熟者が口を出す隙間は皆無である。
 それでも、あえて口を出すなら、全く異なった切り口でなければ意味がない。全く異なった切り口とは、独断と偏見を意味してしまう。
 以下、読んで戴けるのならば、その点を念頭に、なにとぞご容赦願いたい。


(はじめに)
 神道夢想流杖術の開祖は夢想権之助ということになっている。そのことに異論を挟む気は全くない。
 しかし、今日に伝わる64本の型にまとめ上げ、神道夢想流を体系づけたのは、権之助ではないと考える。とても一人の人間の為せる技とは思えないのだ。
 かつて、何れかの時点に置いて、数人の師範家が集まり、神道夢想流の理念を突き詰めて考え、意見を交わし共通認識に至ったと想像する。
 そして、彼らは共通認識をもとに、それぞれ分担し64本の型をまとめ上げたのではないだろうか。
問題はこの型にあると思う。型の意味を正しく認識し、理念を探ることが、今日、神道夢想流において必要だと思い、稚拙を顧みず述べさせて戴こう。
 稽古の場での百家争鳴は楽しいものではあるが、初心者にとっては混乱するのも、現実のようである。神道夢想流の理合の意味を把握し、もって、初心者の戸惑いと混乱をなくす一助になると信ずる。


一、神道夢想流の型について
@ そもそも武術において、型は流派の開祖が、実際の戦闘の場に置いて、遭遇した体験のエッセンスをまとめたものといえるだろう。
 さらに伝承をかさねるにしたがい、代々の師範が、戦いを通じ体験したものを付け加え、実際の場に役立つように、進化していくものととらえるのが一般的である。

A 一方、神道夢想流においては、一本一本の型がそれ自体で、実践の場で直接役にたつ物とは、とらえていないと思う。64本の型を修めた時、はじめて、杖が使えると言える状態になる。
型はあくまで「上達の為のカリキュラム」である。
64本の型が完全に体系づけられ、順を追って習っていくにしたがい、杖術の技を修得できる仕組みになっている。開祖の夢想権之助が体験の場で修得した技を使えるまでにもって行く「上達の為のカリキュラム」である。
よって、型はあくまで固定した型(鋳型)でなければならない。変化、進化する形で有ってはならないのだ。
 進化するには、部分的な変更であってはならず、全体を変革し新たに組み直す必要がある。そうなればもはや、神道夢想流とは言えないであろう。
これほどまでに、細部にわたり、明確に体系づけられた武術は、寡聞に私は知らない。

B 例として、入門後、最初に習う「太刀落とし」の型をみてみよう。
1.太刀は、八相に構え、間合いを詰める
2.杖は、常の構えから左手で杖尻を掴み、相手の出方を待つ
3.太刀は、隙を見出せない為、正眼に構える
4.杖は、隙を見せず、大きく振りかぶり太刀と合わせる
5.杖は、太刀の間合いの外に体をかわし、霞を打つ
6.太刀は、刀で杖を受ける
7.杖は、引くと同時に体を開く。そのとき右首筋に隙を作り、太刀を誘う
8.太刀は、右首筋に斬りかかる
9.杖は、斬ってくる太刀の小手を打ち、そのまま、杖先を相手の眼につける
10.・・・・・
11.・・・・・



まだまだ型は続いていく。
しかし、4以下について確固たる理合は成立していない。そういう事も有るかもしれないであり、そうなる必然性はない。
神道夢想流において、型は一本のみを捉えてはいけない。あくまで64本を修めて初めて一本の型になると考える。

 では、私はどのように思うかというと。
1.相手との間合いの把握
2.足を交差しての体の外し方
3.杖の打ち方
4.体の開き方
5.体の入れ方
以上の技を稽古する為に、この型があると考える。

ちなみに、型の最後に習う、奥伝の「阿吽」をみてみよう。「太刀落とし」と比較されたい。
1.太刀は、八相に構えて間合いを詰める
2.杖は、常の構えから左手で杖尻を掴み、相手の出方をまつ
3.太刀は、隙を見出せない為、正眼に構えようとする
4.杖は、相手に乗り太刀に合わせようとする刹那、霞を打つ
以上で終わりである。
気配も初動も解らない為、太刀は打たれて初めて気づく事になる。

C 64本の型を、段階を踏んで稽古することにより、習う人をこの境地にまで引き揚げようと、組み立てられているのだ。そして、そこまで到達した人が現実に存在する。(存在しなければ型の意味がない)
 これが、神道夢想流の型の理念である。そして、「上達の為のカリキュラム」であるゆえんである。
 一人の天才体験をもとに、作り上げたものではないと考える理由はここにある。
数人の師範が、杖を使うことに対する共通の理念を持ち、細部に渡って考慮、熟考のうえ、組み立てなければ出来うるものではないと思う理由である。


二、型武道における理合について

@ 武道において型とは、一般論として技を修得する方法の一つである。(ことに現在では、色々な防具が考案され選択肢は昔より遙かに多くなっている)
 実際に打ち合い、斬り合うには、危険が伴い技を修得するまえに身体が駄目になる。そこで、型として稽古をする方法が編み出された。
そこには当然、理合が必要となり、これなくしては型は無意味である。
相手が真っ向から斬ってきた時は、体をかわし相手の刀に乗るように小手を斬る。或いは刀で受け流し首筋を斬る、等々がある。
型の理合を一つ一つものにしていくのであるから、理合は型武道にとって、命とも言える。

A しからば、神道夢想流においてはどうであろうか。
私は、神道夢想流においては理念はあるが理合は無いかのごとく述べた。しかし、矢張り理合はあるのである。これなくしては型武道ではない。
では、何時理合が出てくるのか。奥伝の「阿吽」を修得した後に、本当の理合が出てくるようになっている。
奥伝が終わり、改めて最初の「表の太刀落とし」からもう一度始めたときに、理合が始まると思う。それが証拠に、神道夢想流においては奥伝を修めたときではなく、改めて最初からやり直している時に、免許状が与えられることになっている。これは、その故と解釈する。

B 神道夢想流における理合とは、免許者、個人に属するものであり、弟子に型として教えることは本来出来ない。
「この時は、このように考えられる」「わたしは、こう思う」という、あくまで参考意見たるべきであろう。これを崩すと「上達のカリキュラム」が崩れてしまう。
理合は、身長、体重、筋力等々により、個々に異ならざるを得ないとも言えるだろう。

C では、神道夢想流における理合とは何であろうか? 免許状を受ける前の修行過程においては方便である。人を杖道に繋ぎ止め、稽古を楽しくして普及をはかる方便である。極端な言い方をすれば、理合は良い意味での嘘ということが出来る。

次章においては、何故そうなったかの理由を考えてみたい。


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