啓上 二日の日比谷公会堂で、清水さんに伺ったところ学台は写真を撮って居られる との事で、探してみましたが見当たらず、とうとうお目にかかれず残念でした。 小生は自分の演武がすむとすぐ帰りました。 さて、無外流の稽古のことですが、昨日刀剣会で皆に会いましたので、 希望を聞きました処、一人だけ岡田道場に入門して、他稽古と両方やりたいと 申して居りましたが他の大部分は一ヶ月に一回でよいから塩川先生に御指導 願えぬかとの事でした。 あとは独習する由です。 一昨日、中川先生からも一寸御注意があり(手紙で) 若し出来ますなら当方禅会の後で見て頂けませんでしょうか。 当方の我侭を申しますなら第二・第四日曜のどちらかに三時半頃 御出張願えるなら最も好都合です。勿論 先生の御都合で他の日でも結構です。 勝手を申し恐縮ですが御都合伺上げます。 敬具 六月四日 大森曹玄 塩川先生 侍史 その後、約3年間、塩川先生は、鉄舟禅会の終わった後に無外流居合兵道の教授を月に2度行うことになった。当時、東洋鍼灸専門学校の学生でアルバイトによりかろうじて生計を維持していた塩川先生にとっ曹玄老師およびその一門の人々から受け取る月謝は生活費の大いなる助けとなった。 以来、曹玄老師は「私の居合の師は、下関の塩川先生です」と言い続けてこられた。 当時、塩川先生36才、曹玄老師59才、しかも、世に名の知れた大家が、名も知れぬ、地方のいち武道家に師弟の礼をとられたのである。 山口県の徳山市で大森曹玄老師の講演会が行われたおり、その地で老師は「同じ山口県の下関に自分の居合の師である、塩川先生がおられる。残念ながら時間がなく、ご挨拶できない」と申された。それを聞いた、講演会主催の関係者が後日、菓子折をもって挨拶に来られたこともあるという。 「曹玄さんは、本当に立派だ! あれだけの大家でありながら、自分ごときに礼を尽くされる。 あんな人はいない!」 全日本剣道連盟が本格的に居合道に力を入れ始めた昭和40年代、紙本栄一範士、富ヶ原富義範士、と塩川先生の3人で九州、四国、中国、近畿、遠く北陸まで、各県連の依頼により指導に廻った。当時の受講者のうちから現在、全日本剣道連盟の範士8段になった者は多数いるが、塩川先生に教わったと言う者は、まずいないそうである。 「紙本先生に教わったとは言うが、私の名前はまず出てこない」 「そんなものだよ。田舎の空手家に教わったと言って得することは無いからなあ!」 続けて、塩川先生は言う。 「合気道もおなじだ、私に礼を尽くされるのは井上さんぐらいか!」 合気道の世界にも、塩川先生の足跡は少なからずあるが、知る人は少ない。 なお、井上さんとは、合気道養神館本部道場長、警視庁合気道名誉師範、井上強一9段のことである。 私ごときが意見を述べるのもおこがましいが、大森曹玄老師、井上強一師範、この人たちは本物だと思う。ここまで率直になれる精神は、禅、武道にて修行を積み、心身を練りに練った結果だろうか? 本当に自らに自信のある人だと言い切っても間違いではないと思う。 ここでふと脳裏に浮かんだ。冒頭に述べた、私の勝手な定義、『師』とは、1.人生に大きな影響を与えた人、2.現実に接触した人 、そして第3として最後に付け加えたい。 「『師』を選ぶのは、あくまで弟子である。誰を『師』として崇もうと本質的に各人の勝手である!」 |